第282回

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藤井 喜市   文 郷土史家 佐々木 一

朝上小学校南にある藤井喜市の銅像
 藤井喜市は明治5年(1872)3月11日、朝明郡田光村の農業、 父安太夫、母ひのの長男に生まれました。はじめ田光学校で学びさらに菰野学校の高等科 へ進み、歩いて通学しました。そして教師になるべく津の三重県尋常師範学校へ入学しました。
 明治28年(1895)3月、師範学校を卒業して最初に、菰野にあった菰野村 外十一カ村組合立高等小学校の訓導として奉職しました。 当時の菰野学校は名高い河村忍校長の代で、この河村校長のも とに十年勤め、同三十八年に母校の朝上尋常高等小学校の校長を命ぜられて赴任しました。
 喜市は、師範学校の学生時代から文学詩歌に親しみ、菰野の稲垣白砂あたりと短歌を 通じて深い交流がありました。また、当時小島学校の教師松森鉄三郎や、田光の諸岡誠 一らが奔走して興した文芸結社「温故社」へ入会して、朝上村において短歌、 俳句の活動をはじめました。
 そして朝上小学校では、小島学校を統合して校舎の増築を行い、奉安庫を建 て学校施設の充実につとめました。同41年には「校訓」を制定しました。
 この頃神社の合祀が進められ、その宮守であった青年の集団を村一本に統合して、新しく 「朝上青年団」を創立しました。また、女子青年は「処女会」の名でまとめ、 小学校内に裁縫教室を設けて、礼儀作法や裁縫を教え、男子青年には夜学を開講しました。 このように男女青年に新しく公民教室をほかの町村に先がけてはじめました。 大正4年(1915)には桜井邦太郎村長の要請を受け「村訓」」を喜市が起草して碑を建てました。
 喜市は学校教育に努めるほか、早くから佐々木信綱の主宰する短歌誌「心の花」 に投稿し、また中央歌壇の「馬酔木」や「アララギ」にも発表して伊勢歌人の名 を高めていました。明治41年5月23日に歌人の伊藤左千夫を湯の山温泉へ招いています。 当時左千夫は子規の根岸短歌会をつぎ、小説「野菊の墓」を発表した新進気鋭の作家でもありました。  一方俳句は、桑名の天春静堂と深く交わり、静堂の俳誌「かいつむり」の編集にも参画しました。
小島では金蔵寺で「花の木句会」が、田光では光泉寺で「温故社」が中心 になり青年らが集まり、また田口の西行庵跡でも歌会が催されました。 喜市はこうして朝上村の文芸活動にも深くかかわり、学校長の激務の余暇を さいて指導にあたり、殊に青年に慕われていました。
 昭和5年(1930)朝上小学校を退職すると一切の公職につかず、専ら晴耕雨読、 畑仕事、土いじりに親しむ生活でした。しかし筆を持つことは忘れず、 鬼白の号で色紙、短冊、条幅に麗筆を揮いました。また朝明川周辺の美しい田園風景 を歌に詠み続けました。
その句帳は七冊、日々の生活を綴った日誌は二十余冊が残されています。 いずれも毛筆で丁寧に書かれ、当時の生活、友人、知己との文芸交流などを知る、 いまでは貴重な資料であります。
 明治、大正、昭和と三代にわたり朝上地区が生んだ教育者、 文学者としてこの喜市と小島の増田甚治郎(八風)を挙げることができます。
 現在の朝上小学校の体育館南に喜市の歌碑と石造の胸像が残されています。胸像の柔和な温顔は、慈愛に満ちたまなざしで学童をはじめ人々をやさしく見守ってくれています。