第283回

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寿亭と志賀直哉  文 郷土史家 佐々木 一

葛谷寿子
 湯の山温泉は、元禄の昔三世藩主雄豊の代に廃泉を復興して杉屋をはじめ 八軒の湯治宿がありました。 宝永2年(1705)、その中心に天台の三嶽寺が創建され大石、蒼滝三本杉などの名所も整えられました。
 江戸期は、菰野山、菰野温泉と呼ばれて中部、東海地方の名泉、名勝地として知られ、中京、名古屋城下 の文人学者の来遊も多く、なかでも天野 信景、堀田方臼、横井也有、司馬江漢、伊藤冠峰などは菰野温泉の湯の香り、御在所や 鎌岳の山岳美に魅せられて、それを讚えて紀行文、詩歌に詠いあげ、広く世に紹介しました。
 明治になって西南戦争の後、戦傷病者の療養所の指定を受け、杉屋、橘屋、三嶽寺を臨時の宿泊所に当て、多くの傷 ついた将兵を受入れました。この将兵らが治療を終えて故郷へ帰り、温泉と勝景を称賛したので、 それが宣伝されてたちまち来遊者が増加しました。
 地元の菰野村においても道路の改修と橋の架設に務めました。 明治十四年の頃、菰野の瀬古謹十郎が旅館寿亭を創設し、武藤吉兵衛が杉屋を伊藤伝左衛門が旭亭を営んでいました。
 同四十四年、愛知県一宮出身の葛谷春太郎が来て、瀬古謹十郎の寿亭を譲り受け、妻の 寿子(ひさこ)と高級旅館の経営に乗り出しました。大正四年には別館松仙閣、対山閣を新築 し続いて望城閣、水雲閣と純日本風の建築にして規模を整えました。
 昭和に入ると歌人の阪正臣、三谷蘆華、椎尾弁匡、尾崎咢堂らの有名人も宿泊、なお東久邇宮、 高松宮、皇太子、常陸宮など貴顕の方々のお泊まりもありました。
 同八年の七月には、文豪の志賀直哉が街の喧騒を避け、仙境の湯の山に来て、寿亭を宿にして 小説を書くため暫く逗留しました。直哉は宮城県石巻の出身、学習院東大に学び、 二十六歳の時「或る朝」「網走まで」を書き、武者小路実篤らと雑誌「野望」を発刊。その後有島武郎、 木下利玄、里見クらと同人雑誌「白樺」を創刊しました。 湯の山へ来たのは「暗夜行路」を発表して個性的な純文学者としての評価を得た五十歳のときでした。
 直哉は、寿亭で三昼夜ほど滞在して短編「菰野」を書 き上げました。その荒筋は、弟が悪徳詐欺師に騙されて手形を切り、その尻ぬぐいを弟可愛さに母がして、 その愚痴を聞かねばならない。そうした肉親のどろどろした事件が主題であるので、なかなか気乗 りせず筆が進まない。漸く原稿用紙三十枚近くを埋めたところで筆を措いた。
 しかし「菰野」では、奈良を出て関西線の木更津から亀山で乗換え、四日市から箱電車、その沿線の田園風景、 ことに菰野が一万石の城下と聞いて驚き、終点から雨の中を車で湯の山へ、迎えの若者が提灯で 足許を照らして宿へ、翌朝寿亭の女将の挨拶があり、窓辺に瑠璃鳥がきて一声鳴いたことを、 新鮮な感動で書きとめています。そして帰り際に山草二株、秋の七草の一つか黄色い花を女将が 呉れたといっています。
 女将の葛谷寿子は、宿屋のすべての切り盛りは勿論のこと、宿泊の客人は 貴顕の方も多く、その応接には挨拶一つから気を使い、部屋のお花、お茶のこと、そして歌を詠み筆も 立つ、仲々の器量のある女主人でした。 生まれは笠松の素封家高島善吉の娘、兄の善郎は笠松松枝の村長、次兄の善也は一橋大学の教授でした。 文学の神様といわれた直哉も「菰野」に何度も寿子を登場させています。