第284回

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縄文石器の旅  文 郷土史家 佐々木 一

有茎尖頭器
 町内の高原遺跡で採集された「有茎尖頭器」七点と、西江野遺跡から出土の「矢柄研磨器」八点の縄文草創期の石器が、この秋、奈良県立橿原考古学研究所へ二カ月余りの出張旅行に出かけています。橿原研究所は、日本でも指折りの権威のある研究所です。
この旅先で、じっくりと石器の形容、材質などをよく検討してもらいお正月前に帰って参ります。
 縄文草創期というと、いまから一万二千年ぐらい前からのことで、 人間の寿命からいえば気の遠くなるほど大昔ですが、石であるからこそ残っていたわけです。 この頃は気温は6、7度低く、海面は百メートルも低かったそうです。 その後、次第に温かくなって海面も上昇し、植物も、いまの北海道、 東北形のナラやクリなどの広葉樹林が多く、その木の実が主食であったようです。 動物も巨大なナウマン象やオオツノ鹿は寒さで死滅して、その代わりのイノシシや シカが多くなり、男は狩りを、女は木の実の採集が仕事でした。
 そうして土器を作ることを覚え、物を煮炊きすることで食物の消化が 良く、身長も伸びたといいます。次第に漂泊(さすらい)から定住へと進んだようであります。
 この有茎尖頭器は、旧石器時代から縄文時代のはじまりの頃に使われた石器で、 これに柄をつけてイノシシやシカを捕る石槍でした。 この石槍の採取地は、いまの大和ハウス工場のあるあたりです。 天明元年(1781)の頃に、池底村の庄屋医者である服部盛玉が、北隣に広がる草原の高原 (たかばら)に、村の童(わらべ)らを連れて探しに行き見つけたと、その発見譚 (たん)を書き残しています。
 石槍七個そのものも貴重な資料ですが、採取した年月と場所が記録 されていること、それが江戸時代にほかに例のない、すごいことだそうです。
 そして石槍一個の石材は奈良県の二上山に産するサヌカイトであり、 また一個は、岐阜県の下呂温泉付近に産するゲロ石です。 あとの五個は菰野に産するチャート(流紋岩)です。 一万年前の大昔でも、必要なものは遠近は問わず奈良や 岐阜まで行って求めてきたか、また産地の山国の人が石を運んで来て、 伊勢の塩などと交換したものと思われます。
どちらにしても大変な骨折りです。
 いまも石槍を手に取ってみますと縄文人のぬくもりが伝わってきます。 鋭く、切れ味のよい石を手に入れたときは躍り上がってよろこぶほどの 自慢の道具であったのでしょう。
 一方、矢柄研磨器は、矢の柄を研ぐ砥石で、これもどうしたら 弓の矢が真直ぐによく飛ぶか、縄文人が考えた工夫のはじまりです。 この石器は手の平にこそっと入るほどの大きさで、そのまん中に 一本の筋目があって、二つ合わせて矢の柄を上下にこすります。 すると節が取れ曲ったものも真直ぐになります。
 この研磨器は昭和四十三年、西江野遺跡で岡村康男、小山正和の 二人の高校生が発見しました。菰野富士のすそ野の開拓地の畑のくろです。 縄文時代、江野高原は、木の実の成る広葉樹林帯を背後に控え、 また三方を見渡すことの出来る眺望地、しかもこんこんと清水の湧く泉があって、 ここを絶好の住居地にしていたようであります。
 とにかくわが菰野は縄文草創期の遺物が出土する、 一万二千年も前からの、みどりの自然に恵まれた住みよい所でありました。