第285回

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信長の駒つなぎ松  文 郷土史家 佐々木 一

信長の駒つなぎ松
 千草から根の平峠を越え、千草街道の行きついた最初の村が甲津畑です。この村の速水勘治家の庭にある黒松が「信長の駒つなぎ松」であります。この老松の樹幹は二、二メートルは優にあり、樹高は六メートル余り、その枝葉は青々として勢いよく、この老松一本が広い庭を占めています。
 さて、この松の由来は、元亀元年(1570)五月十九日、信長が京都から美濃の岐阜城へ帰る道に、この千草街道を取りました。この元亀のころ近江も群雄割拠して世情穏やかならず、観音寺城の佐々木六角は、信長の通行を知って密かに杉谷善住坊に手配して、街道沿いの隠れ岩から信長をねらい打ちしましたが、弾は狩衣の袖をかすめただけで、信長は無事岐阜城へ帰りました。
 このとき信長は、日野城主蒲生賢秀の助けを受け、また甲津畑の速水勘左衛門宅では休息して湯茶の接待を受けました。そして表の松に乗ってきた馬をつないだので、それから「信長の駒つなぎ松」とよび、大切に守られてきたようです。速水家は、甲津畑城の城主で鎌倉時代に興福寺の寺領であったとき地頭でした。それ以来、甲津の山城を守ってきました。永禄七年(1564)には、近くの和南山の合戦で戦功があり観音寺城主から感状を受けています。
 この街道が盛んな頃は、人馬が切れ目のないほど通行し、近江からは山のもの、伊勢からは海産物などが運ばれました。その隊商、旅人の通行の安全も、この速水家が管掌して根の平峠までを支配していました。伊勢の千種城主とも絶えず連絡を取り、街道に出没する盗賊の取締りと、風水害による街道の保全など、甲津畑の村挙げてそれに当っていました。
 甲津畑城は集落の上の丘に築かれていて、その城跡は小学校になっています。村には藤切神社と浄源寺、浄光寺の二か寺があっていずれも蓮如とゆかりがあります。
 蓮如上人は寛正年間に比叡山の荒法師に本願寺が破却されて、近江の堅田から日野に逃れ、この村人の案内で山道を塩津まで登られて、その山中の炭小屋で一泊して根の平峠から伊勢へと教化に向かわれたといわれています。
 このあと弘治二年(1556)公家の山科言継も、この街道を通行して、根の平の宿で泊り、峠を越え千種城を訪ね、楠城へもよって駿河まで行っています。
 甲津畑の集落から街道を東へ歩むと、まず桜地蔵の堂があります。このあたりは道も平で歩きやすく、千年も人が通って踏み固めた道は足の感触も違います。藤切川の隠れ岩を左に見て行くと塩津に蓮如上人旧跡の碑が立ち古井戸も残ります。雨乞岳下の杉峠には一本の古杉が残っていて、ここからの眺めは雄大です。峠の下には御池鉱山跡があって街道沿いに古い鉱口がいくつも口をあけています。このあたりから楢、櫟の古木が連なりブナの並木もあります。しばらく谷川沿いにくだると御在所山の裏から来る水晶谷の出会いに出ます。ここから根の平峠までは、根笹の茂る平坦な道で、昔はここに茶屋や旅人の宿もあったようです。
 こうして歴史の道、千草街道をたどると、入口の千草の常夜大灯籠のすぐ側に「海老家の赤松」があり、峠の向こうの終点の甲津畑には「信長の駒つなぎ松」があって、両方の二本ともに樹勢旺盛で健在です。この古松二本が彼我の歴史をかたくつないでくれています。