第287回

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三滝川の治山砂防  文 郷土史家 佐々木 一

三滝川砂防堰堤
 場所は栃谷、現在の東芝保養所下の砂防ダム完成の記念写真。
 このダムは三重県の直営工事で神明橋から清気橋に至る三滝川で施工された。三重県定工夫の半天の右手中央が石工、秦伝一である。背広姿は四日市土木事務所また菰野砂防工営所の職員。
 明治三十年(1897)国の砂防法の制定により同三十二年に朝明川、三滝川の治山砂防事業が始められました。まず千種村千草に「千種砂防工営所」が設置されました。初代の所長は内田周次郎が着任して県直営の砂防事業が行われました。
 「千種工営所」の受持ち工区は田光川、焼合川、朝明川、鳥井戸川、三滝川、金渓川、鎌谷川、内部川でありました。同四十一年に着任になった二代目所長吉川源吉は大阪府茨木町の出
身で、妻子五人を同伴で赴任してきました。
 明治初期の治山砂防の工法は、まず上流部の水源の山に、現地に転在する石を集めて、谷の自然勾配と落差に順応して空石積の小堰堤をつくりました。これを「なわだるみ堰堤」とよび、現在も石積みの表面が摩耗しているだけで、百年余り経ても健在です。
 また、「山腹石積」といい、高さ一メートルぐらいの空石積みを行い内側に礫を詰める工法で、武平峠の下の登山道の側に残っています。「柵(しがらみ)工」というのは、山腹に杭を打ち、その杭に竹や粗朶(そだ)を横に編み土砂をかきつけ、その背後にヒメヤシャブシ、クロマツなどを植えて土砂の流れるのを止めました。春の先がけに薄緑の新芽が出て山を彩るヤシャブシは、この治山砂防でハゲ山に植えられた名残です。
 雲母峰の表の水飲みの谷に残る青石の空石積の水路は、現地の自然石を巧に組合せたもので、急な谷に、手作業だけでよくやったものと驚くばかりの見事な手の跡です。明治三十八年日露戦争のあとは砂防事業も休止状態となりましたが、大正初年から事業費も増額されました。
 昭和初年は、世界的な経済不況に見舞われ、日本もその波にもまれ、国も県も救農土木事業を起して、その救済につとめました。治山砂防費も俄に三倍に増額して、朝明谷、菰野の砂防事業が進められました。
 昭和二年には「千種砂防工営所」が菰野へ移されました。役場の東の茶業試験場の隣りに「菰野砂防工営所」の事務所が新設されました。同八年には、優秀な土木技師を集めて、三滝川にも練石積工の大堰堤を建設する設計に取りかかりました。
 こんどは三滝川の神明橋から清気橋の間の三滝川の最も急流なところで、この工事区は湯の山駅で電車を降り、湯の山温泉の玄関口に当り、道路も改修されてバスもハイヤーも走る観光道路でした。したがって三滝川の堰堤も、あたりの景観美を考慮した設計になりました。
 三滝川の土砂をくい止める堰堤の施工場所は、現在の東芝の山荘のある真下のところ、両眼から岩がせり出してきた川幅の一番に狭い点で、この少し上手が昔の湯の山道で、岩から岩へと丸木橋が架けられていました。
 堰堤工事は、県の直営事業で、監督は菰野砂防工営所が当り、練石積の石工は西菰野の秦伝一が、みかげ石の割
り間知石を一個ずつ丁寧に積み上げました。
 積石の間にはコンクリートを詰めましたが、このセメントを運ぶ人、砂利、砂を竹籠で運ぶ人、川原でグリ石を拾う人などの作業は菰野の農家の人たちが働きに出役しました。月末には現金で賃金の支払があって農家の家計を大いに潤しました。この工事の完成のあと黒沢隆吉菰野町長は、県の治山砂防協会の初代会長に選ばれました。