第289回

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歌人 土方興文  文 郷土史家 佐々木 一

勝田模吉先生の碑
実は土方興文の歌碑

 土方興文は、天保三年(1832) 菰野藩第十世雄興の 二男に生まれ、通称を彦三郎 と称していました。当時の菰 野藩では九世の義苗が善政を 敷いて在位長く、 天保六年(1835) に隠居して長 男の雄興に十世の 座を譲りました。 興文の父雄興は、 在位3年で病に罹 り40歳の壮年で 亡くなりました。
 そのあとは興文の兄の雄嘉 がわずか9歳で継ぎ、政務は 祖父の義苗が後見となり雄嘉 がようやく16歳になったと き義苗が亡くなるという、家 の不幸を目の当たりに見まし た。
 父の雄興は寛政十一年(1799) 菰野藩の充実した平 穏のときに生まれ、文化文政 の江戸文化の爛熟期に少青年 期を過ごしました。そうした 環境のもと、大い に文学の素養を積 み、その文才が 「おくやまふみ」 「冠獄記」などの 紀行文の中によく現れていま す。わずか3年の在位では治 世の功も見られず、天保七年 (1836) 藩学校修文館を創 立して年来の志望がかなえら れました。
 稀に見る文学藩主を父にも った興文も、その資質を多分 に享けて父が創立した藩学校 で学び、ことに督学は南川恒 徳でその薫陶を受けました。また、宇佐美祐一、平井時善 らの教授について学びました。当時の修文館は、お城の南、いまの近鉄湯の山線の南側に 文学講堂と武道館が併設され ていました。
 祖父義苗は弘化二年(1845) に亡くなり、藩の政務 は伯父の斉院義行が後見して、 興文も病弱の兄を助けて、公 務の手伝いをしました。 折から嘉永六年(1853) 米国の軍艦が修交条約の締結 を求めて浦賀に来航、国内は 勤王、攘夷の論が高まり、正 に内憂外患の上下動揺の大混乱期でした。
 そうした世情の中、文学青 年の興文は、藩学校の学友高 田顕允らと折から石薬師宿に 家塾を開く佐々木弘綱の門を 密かに訪ね、万葉の古歌の手 ほどきを受けていたようです。
 倒幕、王政復古の大きな流 れは止まることなく、やがて 明治維新を迎えました。一万 石小藩の菰野も藩を廃し県を 置くことになりました。十二世雄永が藩知事を拝命、それ を補佐して興文が菰野県庁の 大参事として一切の政務を執 行して新しい時代への幕引き 役を全うしました。
 維新後の興文は官途にも就 かず東京へも出ず、菰野に留 まり年来修め、胸に温めてき た歌の道を歩むことになりま した。たまたま近村の川島小 学校に勤める新 進気鋭の勝田模 吉がわずか35歳の若さで亡 くなり、この先 生の教えを受け た生徒とその父 兄が敬慕して悲 しみ、その心情 を察した興文は一首の歌を詠 み、川島村の人たちに献上し ました。それは

 なでしこも露の恵やしのぶらん教えの庭に立ちし昔の

 川島村では、この歌を石に 刻み明治二十三年8月に小学 校下の道端に立てました。そ して興文はお城の北へ出て三 滝川を渡り千草村へ遊び、秋 の深まる山里の景色を

 唐錦たたまくをしく思うかな千草の里の秋のさかりは

 また父雄興が愛してやまな かった鎌ケ岳の山嶺に雲のか かるを仰ぎ見て

 山の名の冠ばかり見ゆるかなふもとはさながら雲のかかりて

 と詠み、父を偲んでいます。
 興文は明治二十八年(1895)2月9日に死没、享年63歳でした 。