第290回

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御在所山の名の由来  文 郷土史家 佐々木 一
 古くから御在所山の名のおこり、いわれには次のようなはなしが伝えられています。
 垂仁天皇の皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が 天照大神の神霊を奉じて、大和の笠編 (かさぬい) の宮から伊勢の五十鈴川の川上へお遷しする とて長い旅をされました。そのとき桑名の野代 (のしろ) から亀山へと向かわれる途中、 菰野あたりで一時、仮の屯宮を設けられたことから御在所、 すなわち御在所山とよばれるようになったと。
 これは菰野の里に伝わる単なるはなしですので、その大本 (おおもと) の神宮に伝わる「倭姫命世記」と 「神宮儀式帳」から、倭姫命の歩まれた巡幸の道すじをたどって見たいとおもいます。
 初代の神武天皇から三十二代目の崇峻天皇までは神話の時代で、 三十三代推古天皇からが日本の有史のはじまりと言われています。 その倭姫命は第十一代の垂仁天皇の皇女ですので、二千年も昔のはなし になります。
 まず最初の大和の@御諸 (みむろ) の宮は、いまの桜井市三輪山の麓、 檜原神社といわれ、そのあたりに皇居もあったようです。 A宇陀の阿貴 (あき) の宮、そして初瀬街道を歩まれて、榛原のB佐々波多 (ささはた) の宮、そして伊賀のC穴穂の宮、 D柘植 (つみえの) 宮、伊賀から近江へ向われてE 淡海 (おうみ) の坂田の宮、そして関ヶ原は不破の関を越えられて美濃国の F伊久良 (いくら) の宮へ。 ここからは川舟を使われて、伊勢国へG桑名の野代の宮へ上陸されました。そして伊勢の野 を進まれてH小山 (こやま) の宮へ。 それからは伊勢路をI藤方片樋 (ふじかたかたひ) の宮、 J飯野の高宮、K多気の佐々牟江 (ささむえ) の宮、 L磯 (いそ) の宮、M家田田上 (やだのたがみ) の宮、N度会 (わたらい) の五十鈴川上の宮と進まれています。
 このほか甲賀の日雲の宮、尾張の中島の宮、 多気の滝原の宮との異説もありますが、おおよそ十五ヶ所の順に旅を経られて、 今の五十鈴川のほとり神路山に宮居を定められました。
 この巡幸の経路においても鈴鹿山地の近江の 坂田の宮から、伊吹山の麓、不破の関を 通り、美濃の伊久良の宮ではこの国の国造 や県主から舟二隻の献上を受け、ここから揖斐の 大河を舟で川下しもの桑名まで下り、野代に上陸されたよ うであります。 太古の昔は野代まで伊勢の海が進入していたようです。
 野代の宮からは御衣野(みその)、古浜、笹尾、鳥取、北大社、 南大社、市場、中野、川北、下村、宿野と歩まれて、そ れからは三滝川沿いに上られ、いまの湯の山駅西の江田の 神明あたりに足をとめられて仮屯宮を設営されたように思われます。 その屯宮跡か、江田神明社が明治末までありました。 宮の前の三滝川は御幣川とよばれたこともあり、この辺の 景色は倭姫命の時代と、今もそう変わりはないはずです。
 菰野からは宿野峠を越えて坊主尾、青木、伊舟、川崎、岩森、椿世 (つばいそ)そして亀山の野村、 鈴鹿川の北岸に足を止められて、仮屯宮をされたようです。 その跡がいまの忍山神社です。
ここから西へ登れば鈴鹿の関、そして天下の険の鈴鹿峠、 千年の昔もいまも変らぬ交通の要所です。
 地図を広げていただくと、桑名の野代の宮から亀山の忍山宮の 関に間に、わが菰野の里がちょうど中間に位置しています。 そして西の国と東の国に背で分ける鈴鹿山地の中心に、 御在所山はどっかりと鎮まっています。
 なお、倭姫命が最も愛された甥の日本武尊が東国出征から帰り、 鈴鹿の能褒野で亡くなられたという物語も、なにか繋がりが あるように思われます。


桑名の野代の宮
 (多度町下野代 野志里神社)

小山の宮
 (亀山市野村町 忍山神社)