第291回

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   下鵜川原村の旅籠   伊勢屋、大黒屋   文 郷土史家 佐々木 一

下村 大黒屋旅館の跡
 延享元年(1744)の夏、尾張名古屋の国学者堀田方臼ほうきゅうは、 熱田から七里の渡しを舟で桑名まで渡り住吉浦から菰野温泉へ湯治に来遊しています。
 そのとき方臼が記した「護花関随筆」の「菰野のしおり」により桑名から菰野までの道を たどって見たいとおもいます。方臼は十万石城下の桑名で一泊して、翌朝早く桑名を出発、 旧東海道を安永から員弁川を渡りました。
 それから縄尾なお、柿かきを経て松寺まってらへ出て、ここから八風街道を西へ取り、朝明川沿いに 平津、萱生かよう、山城へとのぼって、山城から小牧神崎へ来て「この辺り人家なく広い松原が続く」と書いています。
 野添は、いまの川北の集落、この南を流れる海蔵川を渡り下下鵜川原へ入って います。ここを下村とよび、この辺りの中心地、禅宗の禅林寺、真宗の盛願寺、西念寺、 大円寺など寺が四か寺もある豊かな村でした。
 この下村を方臼は「郡山領、山城より一里、立場たてば、酒菓子売る店あり。 本名下鵜川原村という。村立よろし」と記しています。当時の下村は、南の亀山から 菰野を経て桑名道がこの村を通り、山手の千草、田光から四日市、富田への塩の道、 魚の道が村の真中をたてに通り街道の要所でありました。
 そこで、戦国の昔、千種城主の千種氏が禅林寺を創建し、また治田の銀山から盛願寺が移ってきた のも頷けます。さて、話しは方臼の「菰野のしおり」へ戻り、方臼は桑名からこの下村まで来て、 ちょうど昼時となり、ここの立場茶屋で餅を食べて昼食としています。その頃の旅人は、 桑名から湯の山までの中継地に当るこの下村で腹ごしらえをして一服し、また老人婦人の足弱の人は、 ここの旅籠はたごで止まって力をつけて翌朝早く出立した様であります。
 そして方臼の来遊した十年ほど前の享保十八年(1733)頃に、この下村は西の方で出火して、 折からの強い西風に煽られて四日市街道沿いの商家、旅籠は猛火で焼け、西念寺の本堂まで 焼失する災難がありました。そこで村では南の川から樋で水を引き街道沿いに石積みの水路を作り、 家を建て直したので商家が軒を並べ宿場町の構えを見せました。方臼が「村立よろし」 と褒めているのもわかります。
 下村では、はじめ盛願寺の南東の桑名道の角に市場ができ、 ここで近江商人とも交易して近江の山の産物、伊勢の海のものが盛んに取引きされて繁盛し、 そのあとその西に伊勢屋が店を開き、酒魚を売り料理を作り旅館も営みました。 その南に大黒屋も同じような店を構えた様です。昔は伊勢屋の前を通り、大黒屋 の西側の道が菰野のお殿さまも通る菰野道、桑名道でありました。 なお、この下村の豊かさを象徴するものに浄瑠璃、歌舞 伎芝居がありました。いまでも衣装、三味線、小太鼓、鼓などの道具が残されている家もあって、なかでも元治二年(1665) 頃の玉屋安兵衛をはじめ、伊勢屋太七、おしゅん、竹本かね、位田嘉蔵、河 村源三郎ら芸熱心な人の名が残っています。
 その歌舞伎芝居の熱が嵩じて寺尾直治郎は下村座とよぶ芝居小屋を建てました。それは舞台、花道、桟敷もある立派なものでした。その小屋で 稽古に励み、人々を寄せて見せ、近郷で大評判を得ました。
 なお、桑名道、菰野道の辻に残る道しるべは、大黒屋の利蔵が旅人のために立てたものです。