第292回

バックナンバー

   農民運動の父   小林慧文   文 郷土史家 佐々木 一

晩年80歳頃の慧文和尚
 慧文(えぶん)は、明治40年(1907)9月6日に茶屋の上の 農業、父利吉、母ハルの六男に生まれました。兄弟は男子九人、女子一人合わせて十人ありました。 家は集落の一番の上(かみ) 標高170メートルの高みにあって、裏は平見(ひらみ)山の茶園に、 それから蛇不老山の裾につづく山林、家の東は 明るく開けて菰野一帯がながめられ、遠く伊勢平野から 名古屋城の金の鯱が、ぴかりと光って見える見 晴らしのよいところです。
 茶屋の上は、寛文十年(1670) 菰野藩の新田開発により開墾がはじめられた所で、 菰野藩の巻狩りが行われた荒原でした。木を伐り石を起し て、まず水田を造り飯米を確保して、畑は藩も奨励するお 茶畑に造成しました。
 そうして小林の姓を名乗る家は宿野の出身で、そこの源長寺和尚の勧めで当座の米と小遣銭 をもらって、茶屋の上へ入植しました。この慧文の母は、 ここで臍へその緒を切った山家生まれのしっかり者、 しかも子ども十人を儲けた強い母、 病弱の夫を助けて家事の切り盛りはもちろん、外の田畑の仕事、 ことにお茶の一番茶の五月の頃は多くの茶摘みを雇い、お茶を摘み乾 かす炉のこと、お茶師の世話など、乳飲み子を背負い人々 を叱咤して大車輪で働きました。
 こうした農家に生まれた慧文は、父母の身を粉にして働く姿を見て育ち、 小学校を終えると、お殿さまの菩提寺、 臨済の見性寺へ入り、出家得度を受けました。その後、美濃各務原(かがみがはら) の小林寺禅堂へ移り、また臨済専門学院で修学しました。
 それからは一雲水として各地の老師、禅堂を訪ね、禅の奥義をきわめた上、 名古屋城主の慶勝が再建した徳源寺の慧行廬山(えこうろざん) 老師を慕いさらに参禅を積みました。
 そうした修業ののち昭和3年21歳のとき師の名の一字をもらい、 同5年には飯南郡櫛田村の臨済宗興聖寺派の光応(こうおう)寺に住職として迎えられ 普山しました。寺は櫛田川の河口近くの左岸にありました。櫛田村は伊勢参宮街道に面す る水田地帯、折から金解禁に伴う世界的な不況の波にあおられて、村は農村恐慌の真っただ中でした。
 慧文は村人の依頼を受け、村の産業組合の書記になりました。 村は不況を乗り切るために櫛田村負債整理組合を結成して、慧文は戦時下その解決策に奔走しました。
 昭和20年太平洋戦争の終戦を迎え、戦後は食料不足で米麦の増産運動、 そして農地改革、農業の近代化が叫ばれて、揺らぐ村人の中で、あわてず自若としてことに当って いました。同23年に新しく農業協同組合が生まれると、推されてその組合長に就任しました。 また、松阪で農村青年運動を起し、その活動は付近の 村から次第に県下一円となり、村を明け寺を留守にしてその活動は全国に及びました。 同25年にはとうとう全国農民連盟の委員長に推されました。 また翌年には三重県農協厚生連合会の会長に選ばれ、これが県下各地に農協病院建設のはじまりとなりました。
 戦後の昭和25年頃に農村の危機を訴え復興を説いて、卓をたたき坊主頭に湯気を立 て熱弁を振るい講演した慧文の姿を顔を、思い出して頂く方もあろうかとおもいます。 これは原野を開墾して菰野茶を生み出した慧文の故郷、茶屋の上の祖先の開拓魂が 農民活動家の慧文を作りあげたのだと思われます。
 慧文の晩年は、南島町阿曽浦の竜淵寺(りゅうえんじ)を預かり、この禅寺に隠居して悠悠自適の日々 を過し、平成4年5月7日に示寂、行年84歳自坊の光応寺山内に葬られました。