第293回

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   名張の   薦生の里   文 郷土史家 佐々木 一

名張市 薦生の民家
 古くからわが菰野(薦野)(こもお)と伊賀の薦生と、一志の薦代野(こもしろの)(八対野)(はちたいの)の三者は、類似地名の例としてよく挙げられたところです。江戸後期、菰野藩士の横山惟一は、郷土の歴史研究家の一人でしたが、その論考の中で一志の薦代野と伊賀の薦生を並べて、その地名のいわれを説いています。
 一志の薦代野は、現在の白山町八対野のことで、今では古い地名の呼称は変っていますが、伊賀の薦生は、名張市の大字地名としていまも残されています。
 この伊賀の薦生の地名の起源は、名張川とその支流の小波田川の合流点にあって、名張川が大きく蛇行する地点で、その氾濫原に「マコモ」「葦」などの水生植物が繁茂していたことを挙げています。
 わが菰野が、昔は薦の字を用い、薦野と唱えていたことと全く合致いたします。地名の起源は、その土地の自然環境、殊に原初の姿に負うところ大であるといわれ、全くそのとおりであります。
   さて、伊賀の薦生の歴史をたずねますと、まず平安時代 は薦生牧(まき)といい、兵部省管掌の諸国の牧の一つ、伊賀国夏見郷内の牧でありました。のちには大和の東大寺領の杣山になり、杣人が住居して東大寺所要の材を伐出し、名張川、木津川を筏で流し奈良の都へ出していました。
 中世には杣工らが徒党を組み城郭を備え荘園領主や東大寺と対抗する様なこともありました。
 ここは奈良の都への大和街道が月ケ瀬から薦生へ入り、名張から初瀬街道を合わして参宮本街道に出る交通の要衝でした。
 江戸期になると津藩の藤堂領となり、名張川には薦生の渡守が置かれ、渡し舟が人や荷物を渡していました。夏になると名張川の淵に鵜飼船が出て名張城の殿さまが鵜飼いをたのしまれた所です。また、鵜匠の住む村を鵜山とよんでいました。
 この薦生の郷社を春日社といい春日大明神を祀っていました。このことは、わが菰野も偶然にも同じく春日社が郷社でした。薦生の春日社は、明治の神社合祀以後は中山神社と名を改めていますが、場所は変らずそのままです。
 その春日さん、中山神社の裏側、地続きに真言宗醍醐寺派の明王院というお寺があります。この寺、伊賀国八十八ヶ所の五十九番の札所になっています。境内に白樫とモッコクの古木が残っています。このほか船渡寺がありましたが明治初年に廃寺になりました。
   集落の中心、小高い丘の上に愛宕明神の祠があり、愛宕は雷神とも、火伏せの神ともいわれ、伊賀は愛宕神社の多いところです。
 薦生の集落は、戸数約六十戸人口二四六人、集落を取り巻く様に名張川が南から北、そして西へ流れ、その末は梅で有名な月ケ瀬から木津川へ入ります。集落の東のはずれ、薦生大橋を渡ると薦原小学校と公民館があります。ここから名張の街の中心まで4キロ余りの道程(みちのり)です。
 集落のまわりの低地、いわば名張川の氾濫原に水田が広がっています。中山神社の前を通る山添、笠置へ通じる大和街道の両側の民家は、長屋門、白壁の土蔵、茅葺きの住宅、豊かな構えの民家が多く見られます。村のまわりは穏やかな山に囲まれて大和の大寺、東大寺の寺領であり杣山であった薦生の里、県下広しといえども、地名の根拠を同じくするのは、この薦生とわが菰野(薦野)だけであります。マコモの生い茂る原野を開き、いまの町にしてくれた先祖の苦労を偲び、遠くはなれた西の果ての薦生の里を紹介させてもらいました。