第296回

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     鳥居道の境界石   文 郷土史家 佐々木 一

鳥居道山の境界石
 国見岳(1160メートル)直下 の鳥居道山には、中世、天台 宗の冠峰山三嶽寺という古寺 がありました。本尊薬師如来 をはじめ、不動明王などを祀る七堂伽藍と、蔵 王権現を合せ祀り、その参道に鳥 居が立ち並んでい たところから鳥居 道山とよばれていました。
 この三嶽寺は比叡山延暦寺の直系叡山延暦寺の直系で、往古は北勢地方の天台寺 院を傘下に置く大寺でありました。 その寺も戦国時代に、北の美濃から攻め入った信長 の軍勢の、焼き討ちの兵火に 罹り滅亡してしまいました。 それまでは北伊勢地方の信仰 の要であって、病む者は湯の 山温泉で癒し、また寺の薬師 如来の法力にすがるという、 聖なる山でありました。
 それが江戸時代になると麓の村も、南は菰野藩領、北は桑名藩 領と分割されて、元の位置に仏堂の再建は困難となり 「嶽屋敷」と呼ばれる寺跡となってしまいました。 信仰の山の時代は何の争いもなかった ものが、江戸期になると土地の経済的な価値、山の森林が 薪炭、採草の資源として山村 の生活を支える場として何よ り大切の観念が生まれてきま した。勢いそうしたことから 山の境、村の境をどこにする か、俄に問題が生じてきました。 しかも件くだんの国見岳の下は地形が複雑で、谷川、尾根が 入り込み、境の判定が難しい。 昨日は嶽の屋敷跡へ菰野の者 が足を踏み入れたら、千草の者に追い返された。今日は国 見岳の頂上、ゆるぎ石の南で 炭木を伐採中、菰野の者に鉈 なたを取り上げられたと、こうした小競合いが度々起り、それ が繰り返されていました。殊 に鳥居道山の入会権は「郡十 八か村」の共有といい、遠く 尾平、生桑あたりまで延び、 それは戦国期に勢威のあった千種城主の所領と関係があるといわています。
 この境の争論は、菰野や桑 名城下で解決できず、遠く江 戸の評定所まで出向き、幕府 の公裁を仰ぎました。その争 論は慶長年間にはじまり、延 宝年間まで延々と続いていま したが、江戸中期頃からは江 戸まで出向く大きな争いは次 第に治まっていました。
 しかし境界の線引は行われず、明治、大正と経過して、 太平洋戦争が終って新しい民 主政治が行われ、共有林の入 会権は、財産区有の組織で自 治体の下で管理運営をされる ことになりました。
 昭和二十七年の四月三十日、千種村村長(秦駒市)と 菰野町長(土井貞一)の斡旋で、 千草財産区、鳥居道財産区と 南の菰野財産区の代表者が協議の上、江戸時代からの積年の 抱泥を払拭して、境界線を引くこ とに決定しました。写真の石は下の石で、嶽屋敷の鐘突堂のあった跡から 尾根伝いに南へ行った所、六畳敷き位の巨石の表に「界」と彫り、この石から 国見岳頂上を見通した線上の、 頂上の東側の絶壁の鏡岩形の 巨岩に、同じく「界」の字を 穿ち、この二つの界の字の石 から北側が千草村地、南側が 菰野町地であることが確定しました。
 上の石は、絶壁にあって容 易に近づくことができません。 この上と下との石の間の山野 で、鉈や鎌を振り上げて争っ たとは嘘のような話ですが、 数多くの山論文書がそのこと を物語っています。現在の嶽 屋敷には、不動滝とその下に 不動堂、廟所跡に五輪塔、そ して堂跡には基壇石、手洗鉢 などが残って、寺の歴史を物語っています。