第298回

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  戦争の傷跡日参のこと   文 郷土史家 佐々木 一
 
音羽区の日参のタスキと帳面
 この度音羽区有の文書資料を、大きな風呂敷に包んで区 長さんがご持参頂き、包みを開いて拝見させて貰うことに なりました。その中に煤(すす)けた杉の硯(すずり)箱くらいの箱がありました。 その箱の中に「日参帳」という、一冊の帳面とその上 に一筋の赤タスキが納められていました。
 タスキは巾8センチ、長さ61センチほどの二つ折り のもので、表に日の丸の紋と「日参」と染め抜かれ、これを 右肩に掛けて氏神へお詣りしたようです。赤タスキと木箱、 日参帳の三品は、裏に「千種村第二区」とあって、どうも 千種村役場から音羽区へ下げ渡されたものらしいです。「日 参」のはじまりは、四番組の藤田勝一氏からで、一日一戸 が当番に定められ、次は川島徳義氏、市川佐一氏の 順で最後は西山三代松氏で、これで一回りし て106戸の軒数が数えられます。
 この日参のはじまりは、昭和十五年の十二月一日からで、 参拝は村の氏神の千種神社で、夜が明けてあたりが明るくな ってから、この日参の赤タスキを肩にかけてお詣りして、 その次の番の家に、タスキと木箱と帳面を申し送ります。 音羽の戸数からして三ヶ月と半月奉仕すると、また当番が 最初の藤田勝一氏のところへ 戻ります。そうして昭和十八年の二月の末に終っています。 これは戦争が拡大して昭和十六年十二月八日に太平洋戦争 に突入し、男は召集令状により応召して、村に残るのは老 人と婦人となり、日参するその時間を食料増産に励まねば なるまいと、村の人々から話が出て自然消滅の形で中止と なりました。出征兵士の見送りも、はじめのころは菰野駅 まで送り、次は庄部橋になり十八年過ぎからは千種小学校 で万歳で歓送し、その後は区長一人付添いでこそこそと内 緒で出征するようなこととなりました。
 太平洋戦争により戦線がフィリピン、ジャワと南方地域 へ拡大して、それに召集されて従軍する陸海軍の在郷軍人 も多くなり、征く男は「大君の恩醜(しこ)のみ盾となりて、出で たつわれは」の心意気で、生きて帰らぬ覚悟で村を出て行 き、残された家には「出征兵士の家」の表札が玄関に貼ら れ「軍国の妻」「靖国の妻」とよばれていました。
 たいがい出征兵士の家では、老いた両親と子供が二、三人 残されています。「軍国の妻」であり「愛国の母」は、涙も 見せず留守居の家を守らねばなりません。この音羽の「日 参」に奉仕の名簿の中に、女性の名が二十八人を数えられ ます。この人たちは夫の留守を守り、一家の長として、このよ うな村の奉仕作業に参加していたのでした。早朝の朝霜の置く 宮の前で、夫の無事とそうして何を祈ったの であろうかと思うと、胸の痛くなる思いがいたします。
 このころ音羽区の戸数は百六戸、戦後の昭和三十二年は 百三十三戸、現在は百五十七戸でありまして、戦後の爆発 的な人口増加も見られない、戦前も今も変わらない静かな農村です。
 この真赤なタスキを肩にかけ、また白いカッポウ着に 「愛国婦人会」のタスキをかけ、モンペ姿の勇ましい母たち、 このような姿に再び戻すようなことにならないように、祈 りたいものであります。一本のタスキが六十年前の戦争 の傷痕を語りかけてくれました。