第299回

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  九十年前の御在所山   文 郷土史家 佐々木 一
 
「御在所ケ嶽」の絵葉書
 この一枚の古写真は大正二年(1913)ころの御在所 山の頂上の景色です。真ん中の祠(ほこら) は明治の初年、御嶽(おんたけ)教の 覚順行者が、木曽の御岳山よ り分霊して、この神聖な頂上 に祀ったのがはじまりです。
 いまの御在所ロ ープウエイの山上 駅近くの朝陽台、 覚順行者遺跡のあ るあたりでありま す。このころの頂上一帯は、緑こき熊笹が一面 に茂り、地表を覆っていました。
 この写真の右手には、シャ クナゲ、シロヤシオ、アカヤ シオなどの見事な群落がつづ いていました。
 写真の人物は七人で、うち 女性が三人、石の上に腰をお ろすのは島田髪の可愛い娘さ ん、あとの三人は髪を二○三高地型に結(ゆ)い、袷(あわせ) に名古屋帯を締めた姿で、こ の丸い髪型が日露戦争の後、大流行していました。
 男性は三人で、着物がなんと丹前姿、この 綿入(わたいれ)の丹前風が明治のはじ めごろから流行して、その丹 前に、幅広の帯を締めるのが 意気な男伊達といわれ、一時 流行したことがありました。
 写真の右から二人目の恰 幅(かっぷく)がいい男が、当時湯の山で旅 館花屋を開業した通称日進堂、 水谷悟氏であります。日進 堂は斬新で機を見ることの敏 な男で、湯の山温泉を広く世 間に知ってもらうために絵葉 書を作りました。この写真の ほか「老牛と山桜」のような 奇抜なものを四日市市の恒川 写真館に制作させています。 このあと大正八年ごろに日進堂は湯の山から四日市へバス を走らせました。
 そして湯の山温泉の案内書 としては、古くは延享元年(1744)名古屋の国学者堀 田方臼の書いた絵入の「菰野 の志おり」があります。これ を何冊も筆写して、各旅館へ 配り、名勝案内としていまし た。この後、宝暦六年(1756)、安政五年(1858)に書を改めています。また湯 の山の三岳寺から「勢州菰野 温泉略縁起」と題して二種類 の木版刷りが出されていました。
 明治になって菰野川原町の 瀬古謹十郎、きく夫妻が湯の 山へのぼり旅館「寿亭」を開 業しました。同三十六年八月 二十八日に発行者瀬古きくの 名で名古屋の長谷川活版所か ら「勢州菰野温泉名勝案内」として、写真は温泉場前景、 清気橋の吊橋、羅漢石、涙橋、 湯本を挿入、殊に温泉の効用 を内務省大阪試験場に分析を 依頼して、その成分療治効用 を挙げています。
 そして湯の山八景を選び、 四季の移り変り、江野の錦秋、 菰野菊、長石、負ばれ石、恵 比寿岩、大黒石、地蔵石など 自然造化の神の造る奇岩怪石を取りあげています。  明治三十年代の湯宿は、この寿亭と伊勢屋、杉屋などで、名物は蕗 (ふき)のキャラ煮、煎餅、菰野茶 など、また旅館でのご飯は 「名高い水晶米『関取』を 召上って頂く」と述べています。
 ここに掲載の一枚の絵葉書は、昭和十七年(1942)七月二十七日付の郵便 で、名古屋の後藤氏が岐阜 県養老郡石津村境の謙敬氏 の許へ送ったものでありま す。名古屋の後藤氏は大学生らしく、御在所岳へ登山し てその景勝、眺望に心打たれ て、親しい学友の謙敬氏に 「君も登ってみよ」と手紙を添 えて送ったものでありましょ う。その絵葉書が古書と共に 古物商へ処分され、近頃、古 書を求められた新潟県長岡市 の中島氏が、古書の間に挟 まっていたのを見つけ「伊勢菰 野」ということで、わざわざ 私の手元へご恵送いただい た貴重な一枚であります。