第301回

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  西行法師の終焉の地 弘 川 寺    文 郷土史家 佐々木 一

弘川寺の本堂
弘川寺の本堂
 員弁郡大安町の宇賀に隣接する菰野町田口の梅ヶ丘には、西行法師にゆかりに庵跡があります。歌の聖と崇められる西行法師の歌碑が二基、残されています。北のほうは青石で、二つに折れていたものをつないで、元に修復されています。

 紫の庵によるよる梅の
匂ひ来てやさしき方も
あるすまひかな


 の歌が刻まれています。もう一基、南の白い花崗岩の方は

 梅さくや春は昔の香ににほふやさしきかぜもふくの山さと

 こちらは桑名の国学者黒沢翁満が法師の遺徳を偲び、一首に詠んだものです。歌碑は、翁満や亀山の近藤織部が庵跡を訪ねて来て、その荒廃を嘆き、安政年間ごろに村の庄屋鈴木又三郎に歌碑の建立を勧めたと記録にあります。
 西行の歌碑は、三重県下に九基あって、他の八基は明治、大正、昭和に立てられ、江戸期の建立は田口の庵跡だけであります。なお、全国では百四六基を数えられます。
 西行は元永元年(1118)に生まれ、俗名は佐藤義清といい後鳥羽院を警護する北面の武士であったが、二十三歳のとき突然出家して法師となり、大和の長谷寺に参籠してからは高野や吉野に隠れ、また諸国を行脚遍歴して東は陸奥まで足を延ばし、西は中国、四国に至るまでその足跡は及んでいます。
 西行は伊勢神宮を崇拝して、温暖な伊勢国を好み、あちこちに庵を編み六年ほど住んだといいます。法師七十二歳になって大和から河内の葛城山の麓まで行き、空海が開いたという弘川寺まで来て亡くなりました。それは建久元年(1190)二月十六日で、桜の花の盛りの満月の夜、弟子慈円らに看取られて七十三歳の生涯を閉じました。
この弘川寺は、真言宗醍醐寺派の寺院で、本堂の右手の小道を登った丘の上に西行塚があります。塚は土を盛り、塚の上は桜ほか樹木が茂っています。法師の古塚の裏側には、終世西行の足跡を訪ね歩いて、遂に享保十七年(1732)にこの弘川寺で西行の古塚を発見した似雲法師の墓があります。
 西行の古塚の近くには、法師を敬慕して「山家集」の研究を努められた信綱の

 仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば

の碑があり、また尾山篤二郎が

 ねがはくば花の下にて春死なむそのきさらぎのもちつきのころ

を建立しています。この歌は法師の辞世の歌でなく、死の十五年か二十年前に詠まれたもので、終世桜を愛して止まなかった西行の願いが込められています。
 この弘川寺は、いまの大阪府南河内郡河南町弘川にあります。近鉄の富田林駅で降り、河内弘川行きのバスに乗ると、その終点で下車、左手の緩い坂を登ると弘川寺の鐘楼が見えてきます。本堂、御影堂、地蔵堂、そして本堂の後ろに西行堂が建ちます。
 なお、本堂の南に庫裏が、その南の庭に樹齢三五〇年の天然記念物カイドウ(海棠)の古木があります。
 本坊の前に庭園が広がり、その西の端に「西行記念館」が建ち、西行と似雲法師にゆかりの資料が陳列、展示されています。