第302回

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  六月 村の祭りと行事    文 郷土史家 佐々木 一

江田(神明地区)を流れる三滝川
江田(神明地区)を流れる三滝川
 明治五年(1872)、ご維新になってこの年に、村の長、(おさ)庄屋、 肝煎(きもいり)の役が廃止となり戸長、副戸長となりました。 戸口の調べも壬申戸籍が行われ、社寺への女人禁制も解かれて、 新しい時代の流れが大きなうねりとなって押し寄せました。 男は丁髷(ちょんまげ)を落すか、落さまいかと思案に暮れたものでした。
 この年、春から日照りが続き、中菰野では水が不足して、田植の代掻(しろか)きが 思うようにできない。それを案じた村の惣代横山源二郎は、戸長役場へ 「この五月二十二日の夕刻から五昼夜の間、産土(うぶすな)神へ雨乞祈願をいたした」 と願い出ました。
 それから昼夜を分かたずに、ひたすら祈りましたが雨は降らず、さらに六月一日に なって再度祈願して十四日に願いがかない降雨があって、やっと田植ができました。
 そして六月十六日は、昔から江田神社の例祭と定まっていて、この祭礼は御幣(おんべ)まつりともいい、 天魚(あまご)を前の三滝川でとらえて伊勢神宮へ献上する風習がありました。
 この朝、江田の社の前に三郷の役員六人をはじめ神職四人、村人十人が参集して、 まず前を流れる三滝川で天魚を取り、それを神前に供え、清めの湯の花神事があって式がおわる。 そのあと境内で草相撲の奉納がありました。
 村の祭りの余興は草相撲を催すのが慣わしになっており、殊に田植も無事に終わった野上り、 サナボリ祝いの祭りでもありました。
 二十五日は、惣代が村中巡回して田植のおわったことを確認して、そのことを戸長役場へ報告しました。なお、十日間も雨乞祈願をした氏神の平岡神社へ雨乞御礼踊りを奉納しましたが、これは宮守の若者連が、太鼓を打ちほら貝を吹いて舞い納めました。
 つぎに二十七日は「虫送り」、田や畑に悪い虫がつき、稲熱病に罹らないように、 村の端から村のはずれまで松明をつけ太鼓をたたき、悪病神を追いだす行事、 これも戸長役場へ届出ています。
 翌二十八日は、昔から決っている「不動祭り」、この日は「降り照り構わずの無礼講」といい、 雨が降ればよろこんで簑笠(みのかさ)もので山の不動尊へお詣りした。 西菰野は金谷へ、中菰野は宗利谷へ、東菰野は蒼滝へ、 茶屋の上は滝谷へと、それぞれの村毎(ごと)の水源に石不動尊を祀ってあるので、 触れ太鼓を先頭に供物のお強飯、茄子、胡瓜など夏の成りものを風呂敷に包みこれを背負い山へ登りました。
 遠い昔、菰野は神宮の神領地で「薦野御厨」(こものみくり)といわれ、御幣の風習は神領地での名残りです。 それが慶長五年(1600)から菰野城の土方領となって神領地支配は終わり、 村も西、中、東と三ヶ村に分割されました。
 そして村毎に庄屋、肝煎役を置き治めていました。しかし山と水の権利は 昔ながらの一村共有であることを守り、惣山、惣有と称して山論、水論などの紛争の 生じたときは菰野三郷の形でことに当りました。
 この明治五年の中菰野村源二郎の覚書から今年で百三十一年。天魚を伊勢神宮へ献上していた 御幣の風習も絶えて久しく、江田の神明も、平岡神社も合祀で無くなりました。 雨乞の太鼓踊りも奉納の場を失い、残るのは六月二十八日の不動祭りだけとなりました。
 いまでは田植も機械が植えて、サビラキ、サナボリの温(ぬく)みのあることばも 忘れられようとしています。