第303回

バックナンバー

  七月 片倉溜    文 郷土史家 佐々木 一

今も満面の水を湛える片倉溜
今も満面の水を湛える片倉溜
 近鉄湯の山駅近くの片倉は、江戸期西菰野村に属し、茶屋の上と共に寛文十年(1670)に新田開発された集落であります。  
 はじめは火除野あたりの小谷から流れ出る水をたよりに、畑と水田を開いて耕作していた様ですが、  寛政七年(1795)菰野藩の奨励により、片倉溜の創設工事が着手されました。  この計画は新田開発田の水源と、延いては菰野三郷の灌がい用水計画の一つでありました。
 この片倉溜創設の計画に関わったのは、中菰野村の武田忠治で、  忠治は安永六年(1777)に隣村の水沢村と鎌ヶ岳から金谷にかけて境界の争論が起こり、このとき二五歳の庄屋であったが双方の間に入って事件の解決に当たった切れ者でした。
 片倉溜着工のときは忠治43歳の壮年で、菰野領下十六か村を束ねる大庄屋を命ぜられていました。そのときの藩主は名君といわれる九世義苗で、忠治の才幹を見込み溜池新設の大事業を命じました。
 忠治は、前もって片倉方面の池形池質を調べて、溜池築造の位置を吟味して、その上、堤塘を築く刃金土の良質の粘土の採土ができるか、また運搬の方法も綿密に計算して藩の代官所へ申請しました。
 年が明けた寛政七年の1月17日、まず工事に必要の杭、竹、縄、土突棒などの諸材料の手当てをして、25日に現地で鍬入式を行い、忠治をはじめ三郷の庄屋、肝煎役七人も出役。水盛の抗を打って着工しました。
 はじめ上部に小溜池を造り、谷川の水を〆切り、そのあと下に大溜を築造する、二段構えの計画でした。
 菰野で本格的な溜池普請は奥の溜以来の久々のことで、堤塘を堅固に築くには専門の技術が必要で、尾張から木曽川の堤防を築いた黒鍬師を招いて、その指導を受けました。
 溜池のいのちは、第一番に築堤にあって、満水の水圧に耐える強さと、漏水を防ぐこと、それは堤塘の心土に良質の粘土を用いるか否かにかかっていた。また、その粘土を刃物を鍛錬するごとく、いかに突き固めるか、この地築きが大事な作業です。
 こうして1月17日に着工して3月5日まで、45日の突貫工事で完成しました。黒鍬師9人にほか村人の出役は西村207、中村226、東村389人、合計822人の手間がかかり、これに1日米一升の報酬が支給されました。
 堤塘の中央部に埋設の樋管(尺八)は三寸五分の厚さの杉板を用い、この材料を金谷の御用林から払い下げを受け、木挽、大工の手により工作して、樋管の敷設は専門の黒鍬師で丁寧に据つけられました。
 樋管の尺八とは和楽器の尺八に似て、上から下へと穴が明けられていて、普段は穴を栓で閉じ、必要に応じて池守役が、水位に従い上から順番に通水する大切な装置です。
 また溜池の片隅に「棚 井」という余水吐けが設けられ、これは降雨で貯水が満水の場合、放流して堤塘を守るための安全弁といえます。
 大庄屋の忠治は上溜の新設により自信を得て、つづいて寛政十二年(1800)計画の下溜の工事に着工、1月12日に鍬入れを行い4月8日に、ようやく完成。これには、275人の人手を要して、丁度上溜の3.5倍ほどの費用と労力がかかりました。