第305回

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  万蔵家の阿弥陀如来    文 郷土史家 佐々木 一

大阪府茨木市仏照寺の山門
大阪府茨木市仏照寺の山門
 東海道は四日市宿に油屋藤兵衛という老舗がありました。 ある夜主人藤兵衛の夢枕に阿弥陀如来が立たれて「お前の家に久しく守られてきたが、 元は朝明郡小島村の万蔵家の持仏であった、故あって油藤へ移り今日に至った。 元の小島へ戻りたいもの」と申された。 この夢の告げに驚いた藤兵衛が目覚めた。傍らの妻女も、同じ様な夢を見たという。
 早速く、この次第を認めて、小島の万蔵家へ飛脚を立てた。その返事に、こちらも全く同じ夢告があったと、 まことに不思議なことに恐れ入り、油藤では如来の仰せに従い、小島へ戻すことに決めた。吉日を選び、 如来を厨子に納めて、店の手代に秦持させて、油藤夫婦は、富田から朝明川に沿う八風道を小島へ指してのぼり、 万蔵家へ届けました。
 こうして、如来の仰せの通り元の鞘に納められました。こちらの万蔵家も、桑名藩から名主を命ぜられて、 代々、名を万蔵と襲名する家柄でありました。
 さて、阿弥陀如来は御丈一尺の木造の立ち仏で、光輪がつき、しかも裏書が添えられています。 それには、「木仏安置御免、天和三癸亥稔四月十一日。仏照寺派宗知」と墨書、軸装されています。 年号の天和は元禄の前、いまから三二〇年以前の時代です。
 この裏書の仏照寺は、摂津国三島郡溝咋(みぞくい)村、いまの大阪府茨木市目垣町にある光明山仏照寺、 真宗本願寺派の寺院であります。寺の南を安威(あい)川が流れ、その対岸に古い地名の溝咋神社が鎮座、 この辺り摂津鋳物師の発祥地で、銅鐸の鋳型が出土する古い土地柄です。
 この本寺の仏照寺の由緒記に、遠祖は、近江の地頭佐々木盛綱の子、俊綱が合戦に敗れて後、 高野山に登り吉祥院勝光阿闍梨として真言宗の僧になり修行、その後に関東へ下り、 折から常陸国の稲田で百姓姿の親鸞聖人を訪ね、許されて直弟子となり、順信の名を受けました。
 のち聖人帰洛の折に従い来て、摂津国溝咋郷に行き仏照寺を創建しました。 順信は仏照寺を布教のよりどころにして、西国、四国を教化して各地に惣道場を開き、 有力地頭を信従に請じ入れました。本願寺三世の覚如も建武三年(1336)の夏、 仏照寺へ巡錫しています。この頃、仏照寺は大いに教線をのばし、末寺百数か寺を擁する 中本山級の有力寺院となっていました。  本願寺八世の蓮如は親鸞聖人にゆかりの仏照寺を重く見て、文明七年(1475) 八月二十一日仏照寺へ逗留して、親鸞聖人の御影に讃を入れ、またお文に筆の跡を残されています。
 その後、天正六年(1578)信長が石山本願寺攻めのときは顕如に従い大いに信長と戦い、 信長亡き後、秀吉は本願寺を天満に移し、仏照寺も同じく天満に建立されました。この頃、近江日野の興教寺、 遠く九州小倉の永照寺、中津の明蓮寺などは仏照寺の門末寺院でありました。 天正十九年(1591)秀吉が本願寺を天満から京七条へ移すと、仏照寺も共に京都へ移りました。
 天満に建立の仏照寺は、天保六年(1835)まで存続しましたが、以後は廃絶して溝咋へ移籍されました。
 この万蔵家の「阿弥陀如来」は、信仰の格別に篤い在家信者の万蔵家へ仏照寺から、 お裏判を添えてさげわたされたものであります。