第306回

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  若き町長 黒沢隆吉    文 郷土史家 佐々木 一

柳林共同墓地(大羽根園東)にある黒沢隆吉の墓碑
柳林共同墓地(大羽根園東)に
ある黒沢隆吉の墓碑
 隆吉(りゅうきち)は明治二十二年(1889) 十二月二十四日菰野村の父は泰蔵、母ミ祢(ね)の七男に生まれました。 家は代々菰野藩に伝える武家で、祖父治左衛門は、大坪流の馬術の師範で、藩学校修文館において馬術と柔道を教えていました。 また父の泰蔵は明治になって菰野村第二代の村長を勤めていました。
 隆吉は、藩学校の流れを汲む菰野小学校で学び、卒業すると上京して東京の正則中学校に入学して明治四十年 (1907)卒業して 翌四十一年四月に、菰野村役場の書記に奉職しました。
 その当時は福村直衛村長で、次に大正九年(1920)七月曽根豊之助が村長に就任、この年隆吉三十一歳で助役に抜擢任命されました。 翌十年には役場庁舎の南側に村会会議所を新築、普請は福松の大工内田佐太郎が当たりました。
 つづいて会議所の東側に、日清日露の戦没者十四名の慰霊碑を建立、その北側に茶業技術指導所を設け、製茶の機械化と品質向上の研修、 指導を行いました。この頃宇佐美祐次が、県農会会長を勤め関取米の奨励をはじめ、養蚕、茶業の振興に活躍されていました。
 大正十五年(1926)七月、曽根村長に代わって、辻正道(まさみち)が村長に就任、若冠三十五歳、 東大出の文学士村長で、昭和二年(1927)に菰野小学校の講堂の新築を企画、祈りから流行のドイツ瓦で屋根を葺き明るいガラス窓と、 柱のない西洋梁りを採用の近代建築でした。この講堂の工事は服部幸吉が施工しました。
 そして昭和三年に昭和天皇の即位の大礼に併(あわ)して、村を廃して新しく町制を施くことになりました。初代町長の辻正道は、 「わたくしは町の公僕。俸給は頂けません、ただで勤めさせてもらいます」といい、無給で六年間奉職された方でした。
 昭和五年の七月、次の町長に助役の隆吉を推挙して辻正道町長は勇退されることになりました。隆吉は町議会全員の同意と、 町民大方の信望を得て町長に就任、四十一歳でありました。
 まず町制の根本は教育にあると考え、当時、県下に名高い名張出身の稲森縫之助に白羽の矢を立て「三顧の礼」をとり菰小校長に迎えました。 昭和七年三月着任の稲森校長の進言を、全面的に受け入れ改革を進めました。
 先に、講堂は完成済みであり、その講堂に相応の本館二階建てを新築し、明治三十一年以来の老朽校舎の改築の計画を立てました。 それに、なお、これからは農村の女子教育が大切、町立の女学創立の案が打ち出されました。小学校の大改革と、女学校新設の二つの大事業を同時に 「一気呵成」(いっきかせい)に行う大英断を下しました。
 大事業は、昼夜兼行、町長の陣頭指揮で進められて同九年(1934)三月計画通り見事に完成、 名実共に「教育の町こもの」の名を県下に轟かせました。
 稲森校長の提唱する「労作教育」も実を結び、県下はおろか全国的にも有名になりました。そして同十五年には、 皇紀二六〇〇年を記念して近藤謙蔵元校長に委嘱して「菰野町史」を刊行、これも県下町村では最初のことでした。
 隆吉町長は痩身長驅でモーニングコートがよく似合う、声調も一段高く気品がそなわり、式辞、演説は聴衆の耳目を引き、 これに「鶴町長」の名を奉(たてまつ)りました。終戦後は進駐軍の公職追放令で職を失ない、失意の中に昭和二十四年七月一日死没、享年六十歳でありました。