第308回

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  伊勢三十三観音   文 郷土史家 佐々木 一
垂坂観音の道標
垂坂観音の道標
 観音は、三十三身に姿をかえて衆生を救うという観音信仰は、平 安期に三十三観音巡礼が起こり、大和国の初瀬寺がはじまりといわ れています。観音を本尊として祀る寺院を霊場といい、その功徳を 受けるために霊場めぐりがさかんになりました。
 はじめ畿内近傍の西国三十三観音が起り、東国に鎌倉幕府が置か れると、坂東三十三観音、そして秩父などの観音霊場の巡拝が流行 しました。
 さて西国三十三番は、熊野の那智、青岸渡寺が一番で、現在の和 歌山、大阪、兵庫、奈良、京都の霊場を巡り、最後の納めは岐阜県 谷汲山の華厳寺であります。三重県は神宮の鎮座地であり、伊勢信 仰の盛んなことから避けられたものか、この西国三十三観音中には ありません。そこで西国観音巡拝の霊験、功徳を聴いて、伊勢国に も霊場をということで生まれたものでありましょう。
 伊勢三十三観音のはじまりは定かでありませんが、室町期、こと に戦国の乱世時代に世の無常感から観音信仰が自然に起り、近世に なって世が平安になると巡礼が出来やすく、次第に盛んになったと 思われます。
 伊勢観音の振り出しは、二見町の真言宗太江寺で、本尊は千手観 音、鎌倉期作の重文であります。この寺は東大寺建立の際、行基が 聖武天皇の勅命で伊勢神宮へ参拝し、二見が浦まで来て太江寺を建 立したといわれています。
 次の二番は、朝熊山にある金剛証寺、この寺から降って両宮を参 拝して、十番は多気の金剛座寺、十一番は勢和の近長谷寺、これよ り津の片田の長谷寺、白子の観音寺、鈴鹿の府南寺、鈴鹿川を北へ 渡り安楽川に沿い西へ、野登山の頂上にある野登寺が二十二番にな り、さらに東へ下って荒神山観音寺が二十三番となります。
 鈴鹿の荒神山から朝明の垂坂山へ、天台の観音寺が二十四番、こ の寺は慈恵大師の開かれた名刹。この境内に「伊勢巡礼二四番霊場」 「左杉谷村」と刻まれた石の道標が残されています。巡礼者はこの 道標に導かれて、朝明川に沿い西の杉谷村を指して上りました。
 尾高山引接寺が二十五番。静かな檜の森の中、六角堂に千手観音 を祀ります。その次が杉谷山観音寺二十六番。この寺は、旧地の北 谷から移されて杉谷集落の中心にあって、現在は浄土宗の慈眼寺と なっています。本堂正面の「観音寺」の寺号額と本尊十一面観音は 昔のままです。
 杉谷村は、江戸期桑名城の領下でした。信長の兵火で滅亡した二 つの寺を再興するには、藩主松平氏の帰依を得て、天台から浄土に 転宗して、引接寺の跡は尾高に六角堂を建て、観音寺は杉谷集落内 に本堂を構え、両寺を復興しました。
 それが明治初年の廃仏毀釈で、引接寺、観音寺も廃寺の運命をた どり、後に杉谷村において再興の悲願を立て、慈眼寺と名を改めて 今日に至っています。このため引接寺は廃し慈眼寺の奥の院として 観音堂を二十五番の跡として守られてきました。
 なお杉谷山観音寺伝来の十一面観音と阿弥陀如来像は焼失をまぬ がれ、いずれも鎌倉初期の仏像です。二十四番の垂坂山は、南北朝 の銘文のある慈恵像を残す寺、往昔は共に叡山系の由緒の古寺で、 多くの巡礼者の参詣で賑わったものであります。杉谷の次は藤原町 坂本聖宝寺が二十七番。ここから員弁路を下り多度山の法雲寺が三 十三番の納めの寺でありました。