第309回

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  菰野の松並木   文 郷土史家 佐々木 一
菰野の松並木=昭和10年頃
菰野の松並木=昭和10年頃
 お正月に松は欠かせないめでたいもののひとつ。寒さに耐えて凛として翠を見せている。 かつて城下町の菰野では、武家屋敷の宇佐美家の赤松、近藤家の五本松、山中家の黒松と名木がありましたが、 戦後の松喰虫の食害などを受けて、惜しいことにその雄雄しい姿はなくなりました。
 ここに揚げました松並木の写真は七十年前ころのもので、そのころはこの様な見事な松並木が青青とつづいていました。 並木のはじまりは四日市街道へ、南から来る巡見街道を受ける宿野の辻で、この辻から西へとのぼり、 東町の入口旧三重銀行前の辻まで両側にありました。
 松の太さは、大人の手で二抱えほどは有にあり、その高さも13メートルから20メートル余あって、 天を突く勢いでありました。東海道の四日市宿から菰野を訪れた画家の司馬江漢も、 この松を仰ぎ見てびっくり「ほう、これはなんと見事な松並木、この奥にはお殿さんの館があるのじゃろう」と、 思わず呟いたのではないでしょうか。
 この松並木を植えたのは菰野藩の三世雄豊で、それは寛文の頃(1661〜1672)に湯の山温泉の開発を企て、 登山道沿いに桜、楓を植えて景勝の保存をはかり、廃泉を復興しました。 その頃雄豊の祖母に当る玉雄院が存命して、老後の楽しみに八幡宮の社前に桜、楓を植えました。
 ちょうどそれに合して、城下町の入口正面に松並木がつくられたのであります。 藩主が参勤交代に出発のとき、城下の人々の見送りは松並木筋で行われ、江戸からお国入りの際にも、 この松並木で出迎えたものでした。
 そして将軍の身代りで国々を巡視して廻る巡見使の来訪のときも、松並木の真ん中ぐらい、 今の厚生病院の前あたりに「御馳走場」とよぶ挨拶場を設け、お城から国家老が出向いて、 二千石ほどの身分の巡見使に「遠路まことに御苦労さまでございます」の挨拶をすませ、 並木の下から東町へ入り、巡見使の宿泊所である明福寺へ案内したようであります。
 なお、この頃北伊勢地方は鶴の飛来地と知られ「松に鶴」といわれて鶴が珍重されました。 鈴鹿の白子は紀州藩の飛地で、ここに鳥見役が置かれていました。白子に近い菰野の松並木へ鶴が飛来してくると、 白子の鳥見役が出張してきて、鶴の数を数えて和歌山の殿様へ報告しました。
 鶴は、秋の終りからお正月前頃にシベリヤから渡って来て子を育て、初夏になるとシベリヤへ 帰って行く渡り鳥でした。また「鶴は千年、亀は万年」といい、長寿のめでたい鳥として大切に扱われ、 鳥見役は餌を播き与え鶴の保護にも当っていました。
 そして宝暦十二年(1762)には菰野藩より「並木ならびに湯の山道の掃除につき仰出で」として、 「東町はずれの並木は東村、福村、宿野の三か村において掃除いたすべきこと」と触れが出て、 並木に近い三か村に清掃手入れが命ぜられていました。
 菰野の藩士をはじめ城下の人々は、この松並木の下を通るときは衣服をあらため、 襟を正して歩み、松並木は菰野の誇りでありました。 世が移り変わり、戦時中は食料増産に、松が田圃の陰をするとて伐採令で伐られ、 戦後は観光道路の拡幅で、一本切り、二本切りして次第に姿を消してゆきました。