第311回

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  菰野厚生病院の創立    文 郷土史家 佐々木 一
開院当初の菰野厚生病院
開院当初の菰野厚生病院
 昭和二十二年に農業協同組合法が公布になり戦時中の農会は解散して、 同二十三年五月新しく菰野町農業協同組合が生まれ、初代の組合長に服部光良が就任、四十一歳のときでした。
 その当時は終戦後で、四日市市をはじめ都市は戦災で丸焼けになり、住宅と医療機関の復興が何より急を 要することでした。県では衛生部を中心に医療審議会が設立されて、事業の推進がすすめられました。
 終戦後、農協経営の病院は鈴鹿、尾鷲、五ヶ所などを保有して、周辺地区の医療活動を行っていました。 同二十四年には、県農協情報連合会と、厚生連が合併して、文化厚生連が出来ました。 この会長に小林慧文、副会長に服部光良が就任、慧文は松坂の南豊農協から出て南勢を代表し、 光良は菰野農協出で北勢地方の代表として選ばれました。 それがまた、慧文は菰野茶屋の上の生まれ、光良は東菰野、しかも明治四十年生れの仲のよい同い年、 この二人が、手に手を取って二人三脚で戦後の農村復興と医療機関の充実に当たることになりました。
 まず四日市以北に農協の病院を創設すること、その願いが叶い早くも同二十五年五月一日に 菰野の湯の山街道筋に木造二階建の菰野厚生病院が白亜の偉容を現しました。 着工以来八カ月の突貫工事で、木材やセメント建築資材の乏しい時に、即断即決の早業に人々は驚きました。
 開院して初代の院長杉原茂は、名大医学部青山内科の国手、内科、外科、産婦人科、 伝染病科で二十八床の規模陣容でした。
 光良の病院建設の青写真は、町立伝染病舎が現在の庄部菰中の敷地東にあって、 樹木が繁茂してうっとおしい場所、また、そこは菰中、菰高の学校建設の候補地でもありました。 この隔離避病舎を撤去してどこに移すかが緊急の難問でした。新制の菰中も菰高も急ぎ建てねばならない、 二つの大問題を一挙に解決するのが、光良の肩にかかった大仕事でした。
 開院当初の杉原院長は、急患があると黒い鞄に看護婦を伴いすぐ車で往診、 産気づければ急ぎ迎え入れ、外科の手術も即、執刀してもらえることなど菰野は勿論、 周辺の人々も大きな安心感が与えられました。
 こんどは、北勢の阿下喜に員弁厚生病院の新設を計画、これを同二十八年に、 菰野より立派な病院を開設しました。県厚生連会長の光良は、基幹病院として、 同三十五年松阪中央病院を建設、それより大きい鈴鹿、中勢綜合病院を建て看護学校も 付設して名実共に県下最大の病院に整えました。
 なお同四十一年には菰野厚生病院を木造から鉄筋コンクリート四階建に大改修を行い一六一床と なりました。この頃の院長は吉田正大、その祖先は町内音羽の出で、温厚な学者肌の先生でした。
 光良は、県厚生連会長のほか、全国厚生連の理事、そして、県農協中央会長、県会議員として、 農政ならび医療問題など、常に県の枢要の職に就いて陣頭指揮を行い、 全国的に見ても三重県の厚生連の病院は、秋田、新潟に並ぶもの、また農村医学研究所をつくり、 有名な佐久の若月俊一につづく大偉業をなし遂げました。
 日ごろ光良のところへ毎朝七時頃には地下足袋姿の農家の人々が、 一目顔を見て頼みたいと押し寄せ、自宅の玄関は黒い土がたまるほど慕われていました。 毎日津の連合会本部へ九時には出勤、県庁へ、病院へと足を運ぶを厭わず、命をかけた劇務でした。
 同四十二年十二月十五日帰宅して夕食後、食卓の前で忽然と往生を遂げました。行年六十歳でした。