第312回

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  雲母の大桑    文 郷土史家 佐々木 一
雲母峰西北の「間谷」
にある大桑

雲母峰西北の「間谷」にある大桑
 雲母峰は、鈴鹿山脈の一番の鋭峰、鎌が岳の前立さんの様な山。頭も丸く老年の山容で、 後ろの三角形の鎌は、雲母の古成層を火山活動で、突き破って出来た壮年の山です。
 雲母の地殻は、本州の背骨である秩父古成層で、鎌岳などの火山活動の熱で変成した緑凝灰岩や 石灰岩などで成りたち、また名の起りの黒雲母も包蔵し、昔はマンガン鉱もあって採屈されていました。 石灰岩は多く埋蔵されて金谷あたりで、明治大正期に、窯がいくつか築かれて消石灰を焼いていました。
 この雲母の間谷に、昔から大桑が自生しているとの話しを古老から聞いていましたので、 いまも生きているのか、どうかのことで、それを確かめるための探索行をやることになりました。
 まず、出発点は東海自然歩道の「雲母休憩所」から林道を左手に取り、途中に気象台の 「菰野雨量観測局」の自動雨量計を右に見て、後方に蛇不老山(508メートル)を眺め、 打尾の峠に出ます。林道の無い昔は、瀬戸橋から谷川に沿ってのぼり、田尾の峠へ出て、 北側のかりまた禿、小屋の谷へ出て炭を焼き、薪や柴を採るための仙人の通る道でした。
 打尾の峠から左へ、ぼつぼつ登るとやがて、三重用水の無線中継所(685メートル) のアンテナの下へ出ます。 ここは雲母の頂上から少し降りた平らな肩で、萓山の時代は青木が平と呼び、 一面に根笹が茂り、北側の岨には馬酔木の群落のあった美しいところでした。ここで林道は終点です。
 さて目ざす大桑は、このアンテナの下から右手の谷をしばらく横に這います。 このあたりは初夏になるとバイケイ草が群落をつくり、見事な景観となります。
さらに右に左して大桑の下へたどりつきます。大桑はまっすぐ空を指して伸び、 その幹のまわりは、二人が抱きついて手が廻りかねるほどあって、 正確には3.5メートルほどの太さでした。幹は雷が落ちたものか、たてに深い傷が見えます。 この大桑の隣りにシデの古木があって、それが寿命が尽き台風で倒れています。 このシデが生きていれば天然記念物ものです。
 大正元年に川原町の久留美庄太郎老が書き残してくれた菰野惣山の絵地図によると、 問谷、稲森谷の奥に「桑木谷」と記されていて、昔から山桑が自生していたものと思われます。
 この大桑の探索行は、昭和二十三年頃にこの山で炭を焼いたことのある矢田連氏ほか杣人が 連れ立って案内役を買ってくれました。
その話しでは、この大桑とシデの古木は、この谷の主として伐るのを止めて残したということでした。 桑は、昔から四木の筆頭といわれ、桑、茶、漆、楮は、有用木として大切にされました。 山桑とその実は古代の遺跡からよく出土するそうですが、養蚕のはじまりは、山桑を摘んで蚕を飼い、 その繭から糸を引き出して織物にした様で、綿からもめんの反物にするよりも歴史は古い様です。 古代の「租、庸、調」の時代には貢祖に絹が対象となり、珍重されて麻と共に貢納されていました。
 その後養蚕が盛んになると、山桑が改良されて、桑が畑に栽培されるようになりました。 明治初年に中国から魯桑が移入されて、この魯桑により生糸の質がうんと向上しました。 雲母の麓の西菰野では、明治三年に山村作左衛門が県下で最初の製糸業を創始しています。