第313回

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 進士信俊の建碑式    文 郷土史家 佐々木 一
明治36年11月21日の建碑式に行われた花相撲

花相撲

 ここにセピア色に褪せた、一枚の写真があります。それは、明治三十六年(1903) 十一月二十一日、稲の収穫も終わった新嘗祭に合わせて、川北の進士信俊の顕彰記念碑の除幕式に、 お祝いの花相撲が「阿弥陀寺跡公園」で行われた写真です。俄に土俵を築き四本柱を立て、 土俵の上で近郷近在の力持ちの若者を集めて相撲を取り、その土俵のまわりを、 黒々と見物衆が取巻いている風景です。
 この信俊の遠祖は進士宮内少輔家資(しょうゆういえもと)といい、伊勢平氏の流れを汲む家系で、 はじめ員弁郡の星川城主であったが、滝川一益に攻められ落城して森忠に隠れ住み、 伝八郎盛雄のとき、大強原郷川北へ移りました。戦国武士の帰農百姓の例でした。
 そして川北村が享保十一年(1726)保田領から五井藩に所領替えになると、 大庄屋を命ぜられています。そして世済、信済と経て信俊の代になりました。
その後八世信義のとき、文化元年(1804)に屋敷内に浄誓寺という寺を建立して、 本願寺の達如上人から寺号と本尊を許され、田光の鋳物師達堅に鐘を注文しています。
 信俊は、天保十四年(1843)に信済の長男に生れ、父の亡きあと家を継ぎ、 吹上藩有馬家の伊勢領の大庄屋を命ぜられました。
 幕末、吹上藩の領地は南勢多気郡に五か村、中勢林崎に七か村、北勢三重郡に六か村、 合わせて十八か村、七千七百石の所領でした。信俊は、この伊勢の領地を預る郡奉行の役に就いていました。
 信俊は役目柄、南勢多気の浜田林崎へと出張して年貢の収納、 民政の取締りなどの職務に当たっていました。
 幕末になり勤王佐幕の論が高まると、進士家は曽祖父の代から京都の有栖川宮家と深い交誼があって、 殊に熾仁親王が東征軍総督として明治元年(1868)二月十日東海道を江戸へ進軍する際、 亀山、神戸、津、菰野藩の諸藩も、兵を出して沿道の警戒に当りました。
 吹上藩においても伊勢に七千七百石の領地があり、当然、東征軍から軍資金の献金要請がありました。 しかし吹上藩の本拠は下野(しもつけ)(栃木)にあって兵馬は勿論、金穀の献納もままならず、 信俊は伊勢の吹上領を預る役目柄、急を要する事であり、自家の米倉を開いて東海道を通行の 東征軍将兵の兵糧を賄い、また応分の金品を献納して吹上藩の面目を立てました。
 そして曽祖父信義の代に浄誓寺を自力で建立したほどの信仰の家ですので、中世から大強原郷に 伝わる顯鱗山阿弥陀寺の廃寺跡に樹木を植え、庵を設けて寺跡の保存に努めました。
また元治元年(1864)「禁門の変」で東本願寺の両堂が兵火で類焼すると、明治十三年になって 厳如上人から両堂再建費の懇請を受けて、それにも応分の志納を行いました。 同二十二年に新しく鵜川原村が発足すると、学校、役場庁舎の建設などのほか、教育振興事業にも 惜しみなく助力を尽しました。翌二十三年には、信俊の積年の功に貴族院議員の候補に拳げられましたが、 これを固辞しました。
 同三十五年八月に病気に罹り、療養の甲斐なく九月四日、六十歳で病没しました。 この報を聞いた本願寺の現如上人は特使として蓮枝勝尊を派遣して弔いました。 村人も信俊の遺徳を偲び、阿弥陀寺跡に記念碑を建立しました。