第314回

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 惣五郎の井水開鑿 (かいさく)    文 郷土史家 佐々木 一
大正5年青年時代の惣五郎

大正5年青年時代の惣五郎

 佐々木惣五郎は明治三十二年(1899)菰野村、中菰野の農業、喜市の長男に生まれました。 家は曽祖父惣吉が「関取米」を発見した篤農のほまれ高い家でした。
 惣吉が発見した関取米を普及すべく、その子の喜兵衛、孫の喜市と三代にわたり自家の水田に採種圃を設けて 良質の種を選種して、全国の農家へ送りました。 この惣五郎の生まれた明治の末には、神力、愛国、竹成種についで関取米は第四位にランクされ、 全国で六万二千町歩も栽培されていました。
 関取米は、美味しい米のはしりとして、江戸の鮨米などに大好評を得ましたが、 当時の中菰野では潅漑用水が不足して、十分な収穫も望めず、水の確保に苦労していました。
 菰野の用水施設の第一は、近鉄湯の山駅西で、三滝川の表流水を堰堤で塞き止めて取入れる大湯用水でした。 受益地六十町歩を灌漑して、中菰野はその末端に位置して、ともすれば用水不足になりがちでありました。
 そこで中菰野では振子川に、住田、柿内、横立湯など、また金渓川から松葉、中里などの井堰を設け、 なお長池、郷内池で不足を補い、水は苦労の種でありました。
 この解決策として惣五郎は、中菰野の北を流れる三滝川の伏流水を取る方法を日夜、 夢にまで見るほど考えを練っていました。それが、はからずも昭和十五年に四一歳で中菰野区長を拝命、 そこへ支那事変以来、戦局は緊迫して食糧事情も不足、遂に米穀配給制となり食料増産は必至の使命となりました。
 惣五郎は、多年宿願の三滝川伏流水の取水はこの時とばかり計画を練り、構想をときの町長黒沢隆吉に上申、 許しを得て中菰野区民の同意賛成の上、工事の設計は県耕地課技師の測量、計算の上、設計書ができ上がりました。 その計画のあらましは、まず三滝川の伏流水を取るため、現在の大羽根団地内(当時山林)に湧水池を二つ掘り、 この池の湧水を地下8メートルの深さにヒューム管を埋設して導水し、480メートル流下した地点に開口部を設けました。
 県道湯の山線沿いに開渠の水路で260メートルを東へ下し、一方は県道湯の山線と近鉄湯の山線路 (当時三重鉄道)下を横断して南へヒューム管を埋設して振子川をサイフォンで越させて住田、 柿内方面へ送り、また開渠水路の末端は桜野、杉の本方面に分布する畑地を水田に転換して、 米の増産を計ることが、惣五郎の構想でありました。
 その事業名は「農地造成改良事業湧水池導水管伏設工事」と名付られ、管理者は黒沢隆吉町長でした。 工事の請負人は水谷聖学という在日朝鮮の方で、土砂掘削作業の屈強熟練の人たちでした。
 工事の着工は昭和十六年十二月三日でした。そのすぐ八日は太平洋戦争に突入した日。 村の青壮年層は、大方出征して残るのは老人と女、子どもだけで、世情は一段と厳しくなりました。 工事に必要なセメントも配給、その空袋さえも返納が義務づけられ、埋設のヒューム管も割当、 保々の大同コンクリート工場へ引取りに出向きました。管の埋設工事は総延長640メートル、 開渠水路262メートル、湧水池一つが突貫工事で翌十七年三月十八日に完成いたしました。
 そして畑地の開田は戦争のため人手不足と資材入手困難で中止となりました。 工事完成後は埋設管開孔口から溢れんばかりに噴出する清洌な水に驚きよろこびました。 惣五郎は終戦後、一時意気消沈して信仰と稲作研究に没頭して、昭和三十六年七月二十九日、六十二歳で死没しました。