第315回

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 妙好人 お千代ばあさん    文 郷土史家 佐々木 一
昭和8年撮影の清水千代

清水千代 写真

 お千代は天保十四年(1843)一月十日、水沢村青木の父田中増蔵母てふの長女に生れました。 縁あって万延元年(1860)十八歳のとき佐倉村坊主尾の清水常右衛門の三男、薫影の許へ嫁入りしました。
 当時、佐倉村は津藩、藤堂領で矢合川に沿い、地味も良く村高一千百余石もある豊かな村で、 清水家は村の肝煎役を勤める家でありました。それが明治十年頃に不慮の災禍で家が焼失の不運に遭い、 そのため菰野城下に移ることになりました。はじめは庄部お旅所の近くで小さい料理屋をいとなみ、 城下町の商況の好転を窺っていました。日清戦役後の世間の景気好調の波に乗り、東町で空家を手に入れ、 庄部から移り、店を新築して貸座敷業をはじめました。
 お千代は、長女の美恵が成人して二四歳になったとき、夫の親戚の坂井新右衛門の二男宗吉を、 美穂の婿養子に迎えて家業を譲りました。隠居したお千代は真宗親鸞の教えを深く信仰して、 お手つぎの智積の西勝寺を経て京都の本願寺へ、たびたび上山、参詣していました。
 なお近くの明福寺、西覚寺の住職に相談して、東菰野の商家、農家の人々にも呼びかけて「歓喜講」という真宗門徒の講組織を結成しました。
 お千代の熱心に提唱する歓喜講の行事は、毎年十二月四日に講仲間の家を宿として、 大根汁を作り、まず一杯を仏に供え、皆で経を読み、法話を聴いて報思講を営み、会食を共にして、夏は講員の死没者を偲ぶ追弔会を、明福寺、西覚寺の本堂を借用して催し、法話は桑名別院の輪番を招き、聴聞するのが毎年の慣習となっていました。
 ちなみに大正十四年(1925)十二月四日付けの歓喜講報思講の覚帳には、まず講員名の筆頭にお千代の名が記されていて、それに続く講員は二十九名、講金は一人当四〇銭を集め、それにお米一斗、薪、味噌、醤油、酒五合の買物とお寺の札と合わせて金 10円 56銭の支出で、残金 3円10銭と記録されています。
 お千代は明治四〇年に夫薫影を失い、大正十年に養子の宗吉を病気で先立たれるの不幸に遭いました。 その頃、湯の山に旅館寿亭の創始者の瀬古きくが、お千代と同じく主人を早く失い寂住いの境遇でありましたので、 よく気が合い念仏を深くよろこぶ間柄でありました。
 この歓喜講のはじまりは、お千代が隠居した明治三十一年頃で、それが明治、大正と継続されて、 昭和四十年十二月四日の報思講が最後となって、六十七年間の固い結縁も解けて終焉となりました。
 お千代は明治三十五年の春、西本願寺の第二十一世明如上人から和歌の短冊を直々に拝領の栄を受けました。
それには、
 法義をよろこばるる老女を
 賞で
みほとけの言葉のはれてかみかみてうつる薫はよろず世までに
 と、お詠みになったものであります。またお千代は聖徳太子を崇め、 その画像を特別のお厨子に大切に祀っていました。毎晩仏壇の前に正座して正信偈を読誦するのが日課でした。 それに家の畑に「数珠玉」を作り、その堅い玉に穴をあけ、紐を通して数珠をつづり、人々にあげるのがよろこびの一つとなっていました。昭和九年の十二月四日奇しくも歓喜講の報思講に定めた日の午後一時に大住生を遂げました。行年九十二歳でした。