第316回

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 宮中へ粟の献上    文 郷土史家 佐々木 一
粟の播種の祭儀=昭和六年

粟の播種の祭儀=昭和六年

 昭和三年(1928)十一月十日京都御所にて昭和天皇の即位の大礼が挙げられ、新しい昭和時代の到来ですここ朝上村の田口新田では鈴木宇兵衛の努力で、酒屋溜、赤溜の南側の野を開墾して、新しく畑田とよぶ耕地が生まれました。
 この畑田に作物をつくるに、汚(けが)れを知らない清浄地に、まず粟(あわ)を栽培して新嘗祭に宮中へ献上のことが宇兵衛から話が出て、早速三重県庁の農務課、伊勢の神宮司庁へ伺いを立てた。県庁と神宮から宮内省へ新穀献上の請願手続が行われました。
 宮中では毎年十一月二十三日に賢所三殿の神々に、その年の新殼をお供えして天皇、皇后両陛下もお召し上がりになることが、古代から定められていました。この新嘗祭には米、麦、粟、豆、黍(きび)の五色(いついろ)の新殼と、また海の幸、海産物が全国から献上がありました。
 田口新田から粟献上の請願は、県当局と神宮司庁の厳しい審査の結果、昭和五年の十二月に裁可の沙汰がありました。そこで同六年四月二十日穀雨の吉日を選び、粟の播種の祭儀が行われることになりました。畑田の現地には、「新嘗祭供御粟栽培地」と墨くろぐろと書かれた檜の柱が立てられ、栽培のほ場のまわりは、青竹の矢来の垣もでき、その上、入口には白木の鳥居も立ちました。
 祭場は、中溜と赤溜の南側の野に定められて、正面に菊の紋章入りの幕が引かれ、その前に発壇が設けられて神酒をはじめ、海の幸、山の幸が供えられて、祭主は地元の鈴木重親宮司がつとめ、田光の宇佐美太郎右衛門宮司が補佐し、神宮からも三名の神官の参列がありました。来賓は県会の大野作左衛門、県農会の宇佐美祐次、朝上村長諸岡嘉一、菰野警察署長伊藤雄利ら多数の参列があり、田口新田は勿論、朝上村の人らも黒山のように参集して大盛儀でした。
 粟の種を播くほ場は酒屋溜下の三畝と中溜の南の二畝で、種は神宮の御園農場の技官が持参せられて、播種がはじまると、折から招いた榊の音頭衆内田佐十郎の目出度めでたの祝い歌に合せて種が播かれていきました。
 粟栽培地の管理は、神明社の氏子総代舘平一と堀田密郎が奉仕することになり、夏から秋までの除草と中耕の栽培作業に努めました。粟の収穫は十月初旬の晴天の日に穂刈りして取り入れ、乾燥して唐箕の風撰と石抜きをして、丁寧に精選の上袋に納めます。新嘗祭は十一月下旬ですので、それまでに調整を終え、神宮から宮内省へ献納されたようであります。
 堀田密郎家に残る受納書には、一、精粟、右献穀は新嘗祭の節御供進され候こと。昭和六年十一月二十五日。宮内省と認(したた)められた、奉書の立派な書状です。
 田口新田の土質は砂壌土に赤土混りで、これが粟には最適合の土で、粒の揃った良質の粟の収穫がありました。
 田口新田は、江戸初期、桑名藩支配のとき、新田開発が進められて、堀田氏は羽津から、舘氏は阿倉川から、鈴木氏は隣の田口から移住して来て開墾を行い、溜池を五つも築き、新しい村を開いた土地柄で、集落は散居の構えで村はすべてに進取の気に富み、意気盛んな村であります。この稿は田口新田の長老山本四郎氏と鈴木一三氏からの示教と聞書きに寄るものであります。