第317回

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 永井の大水害    文 郷土史家 佐々木 一
永井川原の水田。この稲が青々と
続く水田が、明治29年の水害で
川原になったところ。

永井川原の水田

 明治二十九年(1896)八月二十九日の夕方、黒雲厚く東からのぼり来て、夜半の十二時頃から雷鳴と共に風雨がつのり、雨戸を叩き家を揺さぶる大嵐となった。風は伊勢湾の高潮を煽(あお)り立て、潮風となって吹きつけた。
 翌朝三十日の夜明けの五時、漸く風雨がおさまり、前の稲田を見れば真白になっている。西の遠山を望めば、これまた焼け山の如く赤茶けて見ゆ。と
 これは、このときの様を「明治二十九年風水害の記」として、竹永村永井の南川仁一郎が書き記した覚書きである。そのあと九月一日から六日までは、秋霖模様の一服状態であったが、六日の夜半から雷鳴と共に、激しい集中豪雨となって夜が明けた。南を流れる朝明川は怒り狂った大蛇の如く水勢を増し、その激流は西島の外堤防を打ち破った。
 つづく八日は、またぞろ風雨激しくつのり六日の水量の倍となった。応急水防の「あうち」も土嚢(どのう)も流して、遂に西島の内堤防をも突き破り、その濁水は中島から東島の稲田へ流れ入り、一帯は大水原となった。東島の人家も危険となり、急拠、高みの勝部へ、女、子供を退避させた。林の木下に俄に苫(とま)葺きの小屋をつくり、菰を敷いて休ませた。
 水の引いた稲田を見渡せば、一面の川原となり高い所は丈余の土砂を積みあげ、水の流れた跡は深い穴を穿つている。その大洪水の末は西村地も侵し、多度道を破り小牧地で漸く本流へ流れ入った。
 十日の早朝に、四日市末永の三重郡役所へ使いを出し急報。郡長代理の出張を得て、その惨状を検分、堤防の決潰の長さ二八三間に及び、杭を打ち棚(しがらみ)を編み、土嚢を積み応急手当をなすべく指示を受けた。
 堤防を破って流れ入った土砂は堤防の嵩揚(かさあ)げと、水田の大きな穴を埋めて、つき均して高低の測量を行った。大方の地ならしが済むと、元の水田に戻すための復旧地鎮祭を催すことになり、神事のあと草競馬を行った。これは意気消沈の村人達皆の心を奮気させるための景気づけであった。
 この永井川原は慶安三年(1650)「寅の洪水」で流れて川原になり、それを宝暦五年(1755)から三年がかりで、元の良田に戻した苦闘の歴史があった。その先祖の苦労を偲び、元に復旧することを誓い合い整地開田作業に着手した。
 幸い上の丘陵「勝部」は赤粘上の良質の土で層も厚い、この土を切り取り採取して、それを南側の急崖を木製の樋で流し落し、その土をモツコに入れて運び、耕土や畔土にして次第に元の水田の姿に戻し行き、小石、栗石拾いの軽作業は、老人、女こどもも総出で手伝い、この作業を「数持ち」といった。
 八月の末より、九月十五日まで半月ほど、不眠不休で水魔と闘い疲労困憊のところへ、こんどは秋口に流行する赤痢の伝染病が、村から村へと伝播して、永井村でも亡くなる人が出ました。 この水害発生の原因は、朝明川の本流が千草谷を侵蝕してその土砂を運搬し、西島の合流点に堆積、そこへ支流の杉谷川、田光川がここで合流して一拳に水嵩が増し、左岸の堤防を破壊の因(もと)となった。
 永井の南川仁一郎は、手記の終りに「これより後の世の水害を恐れ、これを憂いてここにその惨状を一筆書き残すなり」と、結んでいる。