第318回

バックナンバー

 最後の車大工 文 定 老    文 郷土史家 佐々木 一
文定老と車輪の中心部分の部品「軸」
文定老 車輪の中心部分の部品「軸」

 車と言えば、京の都では殿上人が、牛が曳く御所車に乗って参内するのが、はじまりの様です。それが徳川将軍の代になって、明暦の大火の後、その復興の建築資材を運搬するために「車大工」が、人力で引く荷車を考案して、市中をガラガラと引いたのが、荷車の最初でありました。
 この荷車が、人の八人の力に代る便利なものといわれ、「代八車」とよばれました。 そして元禄十三年(1700)頃には、江戸の貸物輪送の主流になりました。菰野城下においても「車大工」が二軒、東町筋に店を開いていました。
 さて、ここに登場の伊藤文定(ぶんてい)車大工は、潤田で三代にわたり、荷車造りの専門の職人の家でありました。祖父の吉五郎は、 万延元年(1860)十五歳のとき、桑名城下の馬道(うまみち)、員弁街道口の「弁蔵店」に奉公して、車大工の技術を学びました。二十五歳、一人前の車大工となり生家の潤田に帰り、車大工を創業しました。
 菰野あたりにおいても、明治の文明開化の波に乗り、人の肩、牛や馬の背を借りての荷物の運搬も、この荷車が出来て大流行となり、丁度、現代の自動車ブームと同じ勢いでありました。
 そこで、荷車の構造と材料など文定老に聞いたことを紹介します。まず、車輪の直径は三尺二寸、回転し土に接する部分を「羽根」ハマともいい、これを支えるのを「輻(や)」後光が十六本、中心の丸いのが「軸」玉、胴ともいい、そして心棒、これらが全部、その材料は堅木(かたき)の樫を材料に用いました。
 荷物を積載する台を梯子(はしご)。材は檜を使い、長さ十尺、巾一尺五寸でした。この荷車に車輪の直径、梯子の長さに大中小の規格がありました。荷車が出来上がると、警察の検査があり、村役場で銅板の鑑礼の交付を受け、車税を納めました。
 荷車のはじめは、車輪が全部木製で、重い荷物を載せ、しかも石ころの多い凸凹道を引くと、車輪の接地部の「羽根」の磨滅が甚だしく、これが損傷すると自動車のパンクと同じ、前へ進むこと出来ず、羽根と後光の結合が悪く、これが外れると道で立往生、車大工の技量が問われることになりました。 そこで、車大工と野鍛治がタイアップして車輪に鉄の輪をはめ、心棒と輪受けに鉄を用いて、これで回転と耐久力が倍加して、人々によろこばれました。
 荷車の材料は、堅い樫の良材が必要で、時には赤樫の山林へ入って、筋目の通ったものを探し求め、それを貯蔵、乾燥させるために大変な苦労がいりました。家の工作と違い、鉄ほど堅い木を相手に丸いものを作るには、道具と格別の技術の練磨が必要でした。
 文定老は、車大工の仕事を父に教えを受け、家に修業する若衆たちと競って腕を磨きました。しかし、先の戦争中は、名古屋市千種区の陸軍兵器工廠に勤め、最新式の機関銃の精密な製作と検査に従事、銃の発射試験で、ついに耳に障害を受け、終戦後しばらくは車大工を続けましたが、世は自動車に打って変わり、止むなく廃業しました。晩年は池の坊のお花の師匠として門下に教え、悠々自適の日々を過ごしていました。それが耳の障害のある身を押して、気一本の職人魂を社会福祉へと向け、奉仕活動に専念することになりました。はじめてわかば作業所を起し、優しく木工作業の指導をして、慈父の様に慕われました。平成十三年九月二十五日。人々に惜しまれ満九十歳の生涯を閉じました。