第319回

バックナンバー

 鏝一丁の芸術    文 郷土史家 佐々木 一
坂倉鉄二郎作「阿弥陀如来像」
菰野見性寺大師堂
坂倉鉄二郎作「阿弥陀如来像」

 菰野藩主土方家の菩提寺である臨済宗妙心寺派の見性寺、本堂の南側に大師堂があります。その堂の中に等身大の阿弥陀如来座像が祀られています。高さ94センチ、膝巾60センチ程の大きさです。
 この大師堂は建坪八坪ほどで、正面の須弥壇に弘法大師座像、左側に修業大師像と呼ぶ大師幼年の得度のころのお姿であります。
 大師堂の建立は大正十年(1921)四月二十一日で、阿弥陀如来の制作はその前後の頃と思われます。大正五年の頃から見性寺の広い山内に、新四国八十八カ所の創設が東菰野の信徒の方々で進められました。それは札所の本尊と弘法大師の二尊の石仏を並べて安置、雨覆いの小さな祠を設けたもので八十八カ所あります。毎年四月二十一日に桜の花の下で盛大に弘法まつりが催されてきました。
 この阿弥陀如来を制作したのは坂倉鉄二郎といい、菰野茶屋の上の農業、房蔵、まつの長男に明治二年に生まれました。鉄二郎の下にりか、松二郎、万二郎、房吉、芳五郎とあって六人兄弟でした。家は四男の房吉が継ぎ、長女のりかは左官職人の平左衛門へ嫁ぎ、万二郎は台湾巡査に、末弟の芳五郎は長兄の鉄二郎に従い、左官の仕事についていました。
 鉄二郎は妹りかの亭主の平左衛門と三人で、日清、日露戦勝後に藁葺から瓦屋根に建替えの建築ブームが到来、新築の家の左官仕事に励みました。
 そこで鉄二郎の民家の荒壁つけは、どんなに大きい住宅でも一日で塗り終える早業の名手で、左手の壁受板の丸めた壁土を、すばやく鏝(こて)でエツリにぶっつけるのと同時に鏝が走り、平に塗られて、鏝の二度なぜは一度もなかったそうです。
 このほか鉄二郎は白壁の土蔵の飾りに、家紋、エビス、大黒などの鏝絵が巧みで、真白に光る土蔵の妻(つま)側の風穴の下に、見事なエビスの鏝絵の出来栄えに、道を通る人々が誉めそやして行きました。
 また竈(かまど)造りも得意で、大中小と三つの口をあけた黒漆喰い造りの竈は、どっしりと黒光りして上品で、火加減もよく台所の主婦によろこばれました。
 こうした左官の名手の鉄二郎は、この手で仏像を作りたいものと思い立ちました。それは木彫金銅の仏像を仰ぎ見て「俺も一つやってみよう」の研究心を起こしました。まず板に原寸大の絵を描いて、それを見ながら木と竹を材料に背丈、肩巾、胸と胴、膝巾に合わせて骨組みを作り、藁や麻をつけて縄を巻いて家のエツリの様に仕立てて、まず下地の壁をつけて乾かせます。そして砂、石灰、スサ、海藻の煮汁、ニガリを入れ配合して、漆喰壁にして鏝とヘラで顔、胸、衣紋と細工して、最後は漆を刷毛で塗って仕上げます。
 こうして阿弥陀如来像は作られました。
 これは鉄二郎流の秘術で、鏝とヘラだけでつくる、余人の真似のできない、鉄二郎ならではの腕前でした。鉄二郎の末弟の芳五郎も兄について左官の技術を学びましたが、一人前になると修業のため知多の方へ行き、常滑で陶芸で腕を磨きました。そして外国へも洋行してギリシャ風の彫刻を修め、花井探嶺と名乗って漆喰にセメントを活用、独特の「チカラ」塑像や「中村観音」などの有名作品を創作しています。鏝が作り出した異色の芸術であります。