第321回

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 役場跡の黒松    文 郷土史家 佐々木 一
役場跡(現菰野地区コミュニティセンター)の黒松
役場跡(現菰野地区コミュニティセンター)の黒松

 私は旧役場跡に立つ黒松でございます。皆さん御機嫌よく新年をお祝い下さったことと存じます。
 私も、ここに植えられて八十余年樹令は百年余を数えます。この菰野のすべての中心であった役場の地で、私の下で繰り広げられた世間のことを、耳に聞き、またこの目で見たことを、お話し申しあげたいと思います。
 ここは菰野城のあったとき「郷会所」という、領内十六ヶ村の庄屋が集まり藩の郡奉行と民政について相談する館がありました。それが廃藩のとき藩学校の「顕道館」がここに移って来て、明治五年に学制発布になると「菰野学校」となりました。それが同九年の伊勢暴動の焼き打ちに遭い焼失、同十二年に菰野小学校として本館は二階建て、校舎はコの字形に前へ二棟並べて立派に再建しました。同二十年には、西側へ校地を拡張して三重郡十一か村組合立菰野高等小学校が併設されました。この学校へ郡内の俊秀が学び、進学校となっていました。
 やがて明治三十一年頃になると両校共に、年々生徒数が増加して小学校だけ、お城の陣屋跡へ移ることになりました。同四十一年に組合立高等小学校も、各村の小学校に高等科が併置されて廃止解散となりました。藩校顕道館から数えて三十九年間の学問の府は、それぞれ各村へ移り、その跡は、元の「郷会所跡」となりました。
 当時、菰野村役場は、東菰野村の郷倉跡に庁舎が置かれていて、いまの山根歯科医院の北西の奥にありました。同四十二年に福村直衛村長は、学校移転後の財政逼迫のときでしたが意を決し、学校跡へ庁舎を移すことになりました。
 学校跡を整地して、村役場庁舎を北側に、南側に議事堂、それをつなぐ協議会室、書庫、使丁室、便所と建設されました。
 この庁舎の建設方法は日露戦争に従軍した大工が復員して来て、新しく洋式の軸梁工法で中の柱を省き、外側は、ガラス窓を採用の明るいハイカラな建物となりました。そして庁舎の周囲は小高い土手を築きその上に赤芽樫を植え、空閑地には、黒松を点々と植え和様庭園に作られ、私もそのとき植えられた黒松の一本です。
 大正十二年になり曽根豊之助村長のとき日清、日露戦役で戦死の方々の表忠碑が私の側に建てられました。また茶業や林業の振興のために試験場、講習場も設けられました。
 そして役場が、ここへ移って来た。郷倉跡へは同九年に谷町から菰野郵便局が移り来て局舎を新築し電信、電話が開通して最新式の交換台が設けられ「もしもし」の通話がはじまりました。
 新しく昭和二年を迎えると四輪の消防自動車が購入されて城下町東町筋の守りとなり、車庫と鉄骨の高い火の見櫓が建ちました。同三年には町制を施き村から菰野町となりました。
 太平洋戦争が終結して平和になると町村合併が進められ、菰野、鵜川原、竹永、朝上、千種が合併して大きく菰野町と生まれかわりました。この合併町民大会の開催の折、鵜崎永蔵老町長は、真白い詰襟りの礼服に身を正し檀上で、西部合併の不退転の決意を堂々と披瀝なされたのは、私の直ぐ西側の議事堂でのことで忘れられないことでした。
 その後、この役場の西にあった近藤家の五本松の雄姿も見られなくなり、道を距て南側の日下部家の柿の古木は元気旺盛です。私、黒松も頑張って生き伸び、菰野町の発展を見守りたいものであります。