第322回

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 越伝和尚    文 郷土史家 佐々木 一
越伝道付の寿像=春日井市鳥居松慈眼寺
越伝道付の寿像=春日井市鳥居松慈眼寺

 越伝は尾張熱田の武士松平十郎左衛門信良の孫に、元和二年(1616)七月十三日に生まれました。 九歳のとき熱田の臨済宗乾徳寺の三霊禅師について学び、十四歳で出家得度を受けた。二十歳になって近江の永源寺へ行き、絶江禅師について厳しい修業を積み、また三霊禅師の許に帰り、師に従い瀬戸定光寺の山中で庵を編み座禅に励みました。
 その後、京都へ上り大愚宗築に会い「学問を捨てよ」と一喝されて、大愚に従い播磨の法幢寺に行き、このとき大飢饉に遭い熱田の叔父から援助を受けました。 そして寛永十九年(1642)の春、一旦乾徳寺へ戻りました。 同二十一年に師の三霊禅師が菰野藩主土方雄高の招請を受けて、 見性寺を創建するに当り越伝も師に随従して菰野へ参りました。 見性寺の創建に際し新しく城の南に寺地を開き、本堂、庫裏をはじめ堂宇の作事一切の寺務は、 師に代わり越伝が務めました。
 正保四年(1647)三十七歳のとき京都の妙心寺に招かれ「伝心法要」の講義を行い、聴講者は一宗の衆僧一千人余りに深い感銘を与えました。
 承応三年(1654)長崎の興福寺へ黄檗隠元が弟子とともに渡来して来たことを知り、その教えをぜひ受けたいと発心して、見性寺は弟子の愚極にまかせ、長崎行きをひそかに企てていました。翌三年の春、弟子千丈を供に遠く長崎へ旅立ちました。親しく隠元に謁して参堂を許されました。伝統の臨済禅を学ばんと、暫く長崎に逗留して、 翌明暦元年(1655)隠元が摂津の富田普門寺の招請を受けたので、隠元一行の供に加わりました。そして菰野の見性寺へ帰りました。
 万治元年(1658)九月に隠元が江戸の将軍家綱に渡来の言上に向かう途次、熱田の乾徳寺に迎えて一夜の宿泊を願い歓待しました。将軍家の援護により、宇治に萬福寺が開堂すると、隠元に開山の祝賀に黄檗山へ登りました。
 隠元に随従の木庵、即非、独立など渡来の高僧と越伝は、深く交わり寛文五年(1665)木庵が江戸参向のときも熱田の乾徳寺で迎え応分の資助をいたしました。
 寛文十年(1670)木庵の招きで黄檗山へ上り「臨済録」を講じこの年の秋、隠元八十の賀を祝し暫く萬福寺の役僧を勤めて、このとき木庵から印可を許されました。そして自坊の乾徳寺へ帰り、師の三霊が創建した三河稲武の瑞竜寺にも隠棲しておりました。
 翌十一年尾張藩主光友が春日井の鳥居松に慈眼寺を創建、この寺の開山の座に招請されました。間もなく六十三歳の立派な寿像が作られました。元和二年(一六八二)に尾張藩の家老である志水右衛門が母の供養のために大高の長寿寺を創建、この寺の開山も越伝がなりました。
 天和三年(1683)四月七日桜の花の咲く頃、病の床につき子弟に見守られて遺偈を書き、大往生を遂げました。 世寿六十八。長寿寺に葬り、遺骨は春日井の慈眼寺へ、墓塔は長寿寺に建立されました。
 のちに長寿寺は黄檗から臨済宗に転派したので、墓塔も慈眼寺へ移されました。 三霊禅師、そして越伝ゆかりの乾徳寺は、先の戦災に遭い全焼して瑞穂区へ移っています。
 菰野の見性寺は勿論、正眼寺、瑞竜寺に木庵、即非、独立などの渡来黄檗僧の書跡が残るのは、越伝の活躍の跡であります。
 なお、春日井鳥居松の慈眼寺は、中菰野智福寺の玉田老師が十歳のとき、梅門和尚に就いて出家得度を受けた寺であります。