第323回

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 湯の山の三嶽寺    文 郷土史家 佐々木 一
昭和60年頃の三嶽寺
昭和60年頃の三嶽寺

 湯の山温泉の中心にある天台宗の三嶽寺は、国見岳の直下にあった冠峰山三嶽寺の跡を引き、 貞享四年(1687)菰野藩主土方雄豊が温泉の湯本近くに薬師堂を再興したことにはじまります。
 この三嶽寺に伝わる「勢州菰野湯の山あんない」には、元正天皇の養老の頃(171〜724)、 浄薫という修行僧が山中に隠棲中、訪ね来た杣人の話しに 「鹿が足を傷つき逃げるを追いしに、彼の鹿、岩根の窪みに傷む足を浸しいるを見た」と。 このことを聞いた浄薫は、鹿の湯浴みの岩穴を探しあて、手を入れたところ自然に湧く温泉と知り、 その霊泉の傍らに薬師如来の小堂を設け祀ったという。
 その後、平城天皇大同の頃(806〜810)、伝教大師が伊勢巡礼の折、御在所、鎌、国見の三岳の峯高く、 渓流澄み、三滝もある霊山と知り、藤内壁の奇岩の北面に寺地を選び、この地に叡山直末の三嶽寺を創立した。
 そして源平の兵乱に一旦衰微したが亀山天皇文永の頃(1264〜1275)再興して、 北伊勢の天台寺院をその傘下に置く。 しかるに元亀二年(1571)の頃、伊勢侵攻の織田の兵火に罹りて滅亡せり。 この謂れを耳にした太守雄豊公、温泉を復興し旧の天台三嶽寺を再興せられたと、その由緒を説いています。
 なお、江戸後期の寛政十一年(1799)中菰野村の宇佐美亮邑が、三嶽寺の「不動尊像」の覚書に 「文亀三年(1503)九月一日七生の父母の出離生死の顕正のため冠峰山三岳寺覚信作」と記し、 なお追記に、吾が六代前の横山如水は、故あって三嶽寺の本尊薬師如来を密かに預かる。 慶長十九年(1614)藩主雄氏大阪冬の役に出陣し、宗久がこれに従い、 帰還後湯本に九尺四方の草堂を建立して薬師仏を祀り、平松山温泉寺と称し湯屋の壷屋権七これを守る。 宗久の孫、宗信の代、即ち貞享四年(1687)雄豊公、往古の冠峰山三岳寺に寺号を戻し温泉の祈願所とした。
 話しかわって現在の三嶽寺本堂に安置の本尊薬師如来坐像は、座高二尺の一木造であります。つぎの阿弥陀如来坐像も二尺の高さで、この二体の仏像、補修の跡はありますが全体に平安後期から鎌倉前期の様式を備えています。そして二体の天部像も二尺余の高さで多少の損傷はあっても、優美な姿で鎌倉前期の作風を残しています。
 先年県の文化財の指定を受けた西菰野正眼寺の薬師三尊仏も平安後期の作であり、かつては旧三嶽寺の末寺でありました。信長の伊勢攻めに際し本寺と同じ運命に遭い、寺は焼失し仏像だけ西菰野の農家の納屋に隠されていたものを、雄豊公が発見、三嶽寺より三十年前の明暦三年(1657)に正眼寺を再建されたのであります。
 本寺であった嶽の三嶽寺の仏像だけ信長攻めを寸前に察知して、菰野村の村人の手で嶮しい国見岳の山腹から必死で仏像を背に負い、また抱いて救出して来たものと思われます。
 嶽の本尊薬師如来をはじめ運び出された仏像は、宇佐美亮邑の記録にある様に、中菰野村に預けられ、また、不動尊像は立仏で、一時西菰野金剛寺へ菰野三郷から預けられ、湯の山に再興のとき三嶽寺に戻っています。
 今旧跡の「嶽屋敷」には、石造不動尊と寺跡に五輪石と、手洗石が僅かに残るだけでありますが、湯の山の三嶽寺に安置の仏像の大半は平安、そして鎌倉仏ということで、変転きわまりなき湯の山の歴史を、ありありと如実に物語ってくれています。