第324回

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 石工 市川宗一    文 郷土史家 佐々木 一
覚通寺の寄灯籠=いなべ市上笠田
覚通寺の寄灯籠=いなべ市上笠田

 菰野町は、西に連なる鈴鹿山地に豊富に産出する花崗岩を加工し、 菰野石として庭園用の石灯籠をはじめ、蹲、飛石などに利用されています。 国道三〇六号の沿道には、その石造品の数々を眺められます。
 この石工のルーツは、遠い和泉国泉南部、箱作村、黒田村から江戸中期の頃に、石工としては、最高の技術を携えて、この北伊勢の菰野へ移住して来ています。その技術を証明するものに、北伊勢の多度大社、本宮の鳥居前に二基の神明灯籠が建立されています。その左側は、千草村長右衛門、 右側は文化九年(1812)5月杉谷村石工伝次郎、伝吉の名が刻まれています。
 ここに紹介します石工市川宗一は、この杉谷村伝次郎、伝吉の流れを汲む、それこそ和泉石工の技術を伝承する石工の一人でありました。
 宗一は、明治三十六年(1903)二月十日父留吉、母すえの長男に生まれ、男四人、女四人の八人の兄弟姉妹がありました。宗一の石工の仕事は親方、師匠に就かず、天性、器用な生れで、石造品も、人の作った作品を見様、見真似で、鑿使いも自分のものにしていました。
 若いときから宗一は、山や川原に転がる野面石を探して、それを巧みに組む、 「寄灯籠」作りが得意でした。その手本となる町内の音羽の常夜灯籠、 そして潤田の常夜灯籠を見て、先輩の抜術を学びました。 それに負けないものを作るには、形、姿の勝れた石を探し出すのが大変な苦労でした。
 寄灯籠は上から宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎と、六つの自然石が必要で、まず石を見る観察眼、目利きが大事。石と話しが出来ると宗一は「石が川原で呼んでくれている」と言っていました。
 杉谷の採石場は、尾高高原の焼合川沿いの、高塚、黒石原、焼合あたりの一帯でした。ごろごろと転がる数多の石の中から、大自然の造化の神がつくりたまう石を探し当てるのが、宗一の勘の働きでありました。この尾高は竹成の五百羅漢の石像の原石を出した所でした。
 また山の採石場から杉谷の自分の仕事場まで運び出すのが、一苦労。生の石に傷をつけてはならずコロ、テコ、シュラを使って広い道まで送り出し、それからは牛車に乗せて巡見街道沿いの吉岡山の切通しの仕事場まで運び出しました。いまの様なトラックもクレーンも無い時代、それでも重い石を運ぶ専門の車と牛がありました。石車を引く、力の強い牛がいて、そろそろと手間はかかるが、牛と人とで安全に運びました。
 自然石を重ねて組む、寄灯籠でも多少は鑿で手を加えなければなりません。真中の火袋は、 くりぬきの空洞にして、上石の石にうまく収まる様に削り取ります。こうして六つの石を積み重ねて完成です。
 この寄灯籠は、今の、いなべ市上笠田の覚通寺の本堂前に納めました。それは昭和十五年(1940)、ちょうど皇紀二六〇〇年、日本中が祝賀気分で沸き返っている年でした。
 いま、この灯籠を仰ぎ見て、杉谷から田光、宇賀、青、員弁川と四つの川を渡り、阿下喜の坂を登って、この上笠田まで、よくここまで嫁入りしたものと驚くばかりであります。そして建立以来幾度の地震にもびくともせずに、六十五年間寺を守って来ました。この覚通寺は桑名藩主の帰依を得た由緒寺院で、住職三浦師が、東本願寺の宗務総長に就いて見えたこともあります。