第325回

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  稲田ご坊の田植歌    文 郷土史家 佐々木 一
親鸞聖人稲田御坊=栃木県笠間市
親鸞聖人稲田御坊=栃木県笠間市
 「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」と謳われている様に、桜の花が散り、新緑のみどりに衣更えして夏を迎える、今年は五月二日が八十八夜で、農家では一斉に田植がはじまります。近頃は、苗代に籾種を播き、苗を作ることは不要で、ビニールハウスの中で短いが、丈夫な苗が箱で作られて、その苗を能率のよい田植機で、しかも乗ったまま一反ぐらいは約半時間ほどで、巧みに手品の様な早業で上手に植えて行く。むかし泥田に這う様に、腰を曲げて一本ずつ手で植えた者では、びっくりする様な仕事の変わりぶりです。田植えは農家では一番大事な仕事、菰野あたりでも、この五月初旬が田植の最盛期であります。
 ここで関東の常陸国西茨城郡稲田の親鸞聖人と田植のことを紹介いたします。 鎌倉前期の承元元年(1207)念仏停止で、京の都から北国の越後の直江津まで流された聖人は三十五歳のとき、米どころ越後の国の村々を丹念に歩いてまわり熱心に念仏の教を広めました。
 そして村人の信望を集め、頚城地方の豪族三善為則の娘、恵信尼を妻に迎え、男の子も生れました。越後に在ること七年、それより東の関東に熱い思いをかけておられました。聖人三十九歳のとき流罪も解かれて建保二年(1214)の春に意を決し恵信尼と子を伴い東国へと旅立たれました。その道中は、越後から信濃川に沿い善光寺へ出て、佐久平から碓井峠を越えて上野へ入り、館林、結城を経て常陸の稲田に落ち着き、ここで小さな草庵を結ばれて移り住むことになりました。常陸には妻の恵心尼の一族の三善氏がいたので、それを頼って関東へ移って来たものといわれ、この稲田でもお弟子が出来、なかでも大部の平太郎は、熱心な信者でありました。
 あるとき聖人は平太郎をよばれて「田植は百姓の一番大事な仕事。この儂も、稲田の村に無事おいてもらうのも仏の大悲。それに報謝するために儂も田植に加えてもらいたい」と、平太郎にたのみ、聖人は膝までつかる深い泥田に入り、田植の男女の村人衆に「儂の唄う田植歌についてきなされ、 さすれば田植も楽しく、仕事もはかが行く」と、早苗を手にして声高に唄いながら田植をはじめられた。

 五劫思惟の苗代に
 兆戴永劫のしろをして
 一念帰命のたねをおろし
 自力雑行の草を取り
 念念相続の水流して
 往生の秋になりぬれば
 お米とることうれしけれ
 なむあみだぶつ
 なむあみだぶつ

 平太郎は、後に出家して真仏の名をもらい水戸に寺を建立して、そのそばに、この田植歌の碑をたてたといわれています。稲田は聖人二十年の永い逗留地、その庵の跡は西念寺というお寺が建っています。また「稲田のご坊」とよび、そのまわりは里山のみどりと田圃に囲まれて、その参道は、数百年を経たケヤキの古木が並木となって続き、並木の向うは田圃で、平太郎の田植歌が聞えてくる様な、のどかな田園地帯です。そしてヒメハルセミの発祥地で名高く、今頃は春蝉の大合唱を聞くことができます。なお近くの山から稲田石という花崗岩の良石が産出して、菰野とよく似た石屋さんの多い土地柄でもあります。