第326回

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  安政の大地震と廣幡神社     文 郷土史家 佐々木 一
安政の大地震の後に再建された拝殿の鬼瓦
安政の大地震の後に再建された拝殿の鬼瓦
 廣幡神社は寛永七年(1630)に菰野藩主の鎮守として雄氏が、京都の石清水八幡宮を勧請して、 城の南の広幡の地に祀ることが始まりです。
幕藩時代は八幡宮と称し、お殿さまの宮として、その東隣りにお武家衆は諏訪明神を祀り、 東菰野村の庶民の氏神としては倭文の宮が諏訪社の東にありました。
 城の南の丘陵の北側には、西から八幡宮をはじめ、諏訪社、倭文社、そして見性寺と並んでいました。 八幡宮は軍の神として応神天皇を祭神に、諏訪社は国土開発の神、武甕槌命を祀り、 倭文宮は星の宮と称し機織りの神、衣服の神と崇められていました。秋祭りに御輿の渡御の神事は、 この星の宮から庄部の旅所へ神移りのことがはじまりです。
 その後年月はめぐり九世義苗のとき文化十五年(1818)金渓川に架かる参道の橋を堅固なものに架け替え、 それに続く参道の二の鳥居下に五段の石を積み、その奥の手洗所から拝殿前まで三十一段の石段の新設工事を、 西菰野村の石工勘左衛門に命じられ、その手伝いに中菰野村の藤左衛門と七蔵が加わりました。 その春四月に工事が完成して、藩の寺社奉行竜崎半右衛門の検分を受けました。
 そして、幕末の安政元年(1854)六月十五日の早朝に、突如大地震が起こりました。 この地震は「安政伊賀大地震」といわれ、いまの伊賀町柘植あたりが震源地で、 伊賀盆地から伊勢平野にかけて大きな被害を及ぼしました。 この地震は十三日頃から前兆の余震があって、十五日の午前二時頃、突然激しい上下運動の激震に襲われました。
  この地震を菰野藩に仕える医師太田惟吉は領内十六か村の被害の状況を記録に残しています。
潰家五二五軒(内寺七ヶ寺)
半潰五二五軒(内寺六ヶ寺)
破損一八四四軒(内寺九ヶ寺)
死人一一人
怪我人五七人
四日市北町五十軒残らず焼失
死人一八三人
 この被害数は、菰野藩から幕府に報告のものと思われます。
 さて、この「安政大地震」のとき藩主は、十一世雄嘉二十五歳。 鎮守八幡宮の拝殿が全壊する被害を受けました。拝殿を失っては祭りの儀式が出来ないので、 急遽重臣が集り再興策を協議の結果、菰野領内の山林では拝殿に用うる檜の良材は得られず「これは緊急のこと尾張藩に懇願して木曽の檜材の救援を仰ぐこと」ということになりました。
 尾張藩は、家康が二男の義直を名古屋城主に定め、 六十万石のほか天下一の美林の木曽谷の三十二か村も与えました。 尾張藩では大切な宝の山を守るために木曽谷の中心地上松に「木曽材木奉行所」を置き山林の経営に当らせました。用材は筏を組み木曽の大河を流して河口の桑名の川湊か、熱田の木場へ送られました。菰野藩では桑名の木場で拝領して木挽きに適材に挽かせ、車に載せ陸路を菰野まで運びました。
 拝殿の工作は藩の御用大工、川原町の高木藤造に命じられました。 屋根の瓦は、見性寺南の「谷の瓦屋政五郎」が地震のあと命を受け、瓦には藩主の家紋「左三つ巴」を入れて製作に取りかかり、見事な鬼瓦二つと魔除け獅子瓦を制作しました。宮大工高木藤造は地震から七年後の万延元年の春に完成と記録しています。
  完成した拝殿は、入母屋造り瓦葺きで、内陣は四間四方の真角で、 外の回廊を入れると六間角になります。
  棟からの屋根の流れは、表正面の向拝へと流れ下り、均整のとれた美しさを見せています。 これは木曽の良材を巧に刻んだ御用大工藤造の優れた腕の冴であります。