第327回

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  伊藤新十郎     文 郷土史家 佐々木 一
新十郎と妻のとくの画像
新十郎と妻のとく
 新十郎は嘉永二年(1849)七月一日菰野城下、東町の商家新六、いく夫妻の長男に生まれました。 その先祖は源六と言い、見性寺南の「谷の奥」に古くから六戸の家があり 「源六谷」に住み、土方氏の菰野就封と共に同地にあった西覚寺が、城下町作りに従い、 谷の奥から出て現在地へ移転した元禄四年(1691)の頃、 源六らも寺と共に東町へ移って来た様であります。 東町では代々源蔵を襲名して「萬屋」の屋号で、ときには町年寄役を勤める商家でありました。
 安政四年(1857)八歳のとき潤田村の人、村井九兵衛長英の私塾へ通い、読書と算盤から関流和算の数学を学び、 家業の商業を手伝っていました。 新十郎二十八歳のとき、室山の伊藤小左衛門に蚕を飼い繭から糸を引く新しい事業を教えられて、 自家所有の畑に桑を植え養蚕をはじめ、それを農家の人らにも勧めました。 自分は東町筋の南側に座繰製糸の工場を新設して十人ほどの工女を雇いはじめました。 明治二十八年(1895)には製糸機械運転のために蒸気機関を据付、製糸機も近代的なものを導入して、 伊藤製糸工場として同三十九年頃まで操業、それが日露戦争後の不況により止むなく廃業することになりました。
 かねてから新十郎は、わが町の発展は湯の山の観光発展にありと思い、 三嶽寺の藤村義恵和尚らと湯の山沿道筋に桜と楓の風致木を植樹することに奔走していました。
 また日露戦争後は欧米にならい電信、電話に鉄道などの近代化が急速に進められ、 名古屋から京都まで汽車が走ることになりました。
 菰野の町、湯の山の発展は、四日市からの交通整備にありと新十郎は考え、東町の商店主や湯の山の旅館の主人らに呼びかけ、四日市の実業家、有力者を訪ね、軽便鉄道の開設を要望。四日市、湯の山間の沿線の町村も歴訪して、熱心に軽便鉄道開設を説き、大方の賛同を得ました。 菰野では神森の高田降平が最も新十郎に協力して発起人会を早く起せと励してくれました。 幸い沿線の桜、川島をはじめ各地から十八人の協力を得て、明治四十三年の二月に県を通じて内閣総理大臣桂太郎宛に 「軽便鉄道敷設上申書」を提出、同年五月に上京して鉄道院高官に陳情、同年十二月に総理大臣名で許可となりました。
 そして四日市鉄道株式会社を設立。その資金を調達して社長に九鬼紋七が就任、測量と線路敷の同意買収を急ぎ進め、 大正元年(1912)十二月四日、起工式を高角駅裏の三滝川の白州の川原で、三重郡長今村眞橘、 菰野村長福村直衛ほか関係沿線の公職者一二四名が参列して、盛大に祈りを込めた式が挙げられました。
 工事のはじまりは起点の四日市ではなく、終点の湯の山駅から着工しました。 これは一番に難工事の湯の山からやれば、後の平坦地は盛土してレールを敷くだけと、 新十郎の目算があった訳です。その頃湯の山から菰野までの軌道沿いには、 昔から田畑を開墾の際に拾い出した石の山が至る所にあり、このガラ山を崩し敷き均せば、たち所に線路が出来、 その上にレールを敷きトロッコに土砂砂利を載せれば、自然の勾配落差でただで運ぶことが出来ました。 工事の人夫は青年団や在郷軍人らが出て、勤労奉仕で突貫工事で進められました。 まず湯の山、川島間の第一期工事が大正二年(1913)二月に完成。レールは米国のカーネギ社製、 蒸気機関車は英国のアーサコッペル社製の舶来ものばかり。軌道巾762ミリメートル、全体の距離は諏訪、 湯の山間15.8キロ、全線の完通は同年九月三十日、最初の運転手は中湖勝治郎、黒い煙を吐いて走りました。
 新十郎は昭和四年(1929)十二月二十三日八十歳で死没、西覚寺墓地に葬られました。