第329回

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  数学者 辻 正次 先生      文 郷土史家 佐々木 一
辻 正次 先生
菰野小学校資料室より
正次は明治二十七年(1894) 七月十一日菰野藩士の父正憲、母たねの二男に生まれました。 辻家は代々菰野藩に仕える武士の家で、屋敷を城下町の東町筋に構えていました。 父の正憲(坂之助)は十二代雄永の近習役として仕えていました。
 正次は明治三十四年(1901)に菰野小学校へ入学しました。 小学校が旧の役場跡からお城跡の現在地へ移転した直後でした。 八年の小学校の修学を終えて同四十一年(1908)の四月、三重県立第二中学 (現四日市高)へ入学して大正二年(1913) 十九歳のとき、中学校五年の課程を卒業して、同年の春、京都市吉田町にある第三高等学校へ入学して、 大学入学の予備の勉強をしました。 三年の修学を卒えて同五年(1916)四月、東京帝国大学の数学科に無事入学しました。 折から東大の先生は英国、独逸の留学から帰られた新進の数学者藤沢利喜太郎、この先生に学び、成績は群を抜き、藤沢博士奨学金を授与されました。 また藤沢先生の推挙により、米国から来日して東大の学制改革に貢献したモルレー博士の「記念数学賞」も受けることが出来ました。
 大正八年(1919)三月に、めでたく東京帝大の数学科をトップの成績で卒業しました。 数学科教授の推薦により第一高等学校の教授に命ぜられて、校歌に謳われている「向いが丘」に建つ一高の教壇に立つことになりました。  昭和二年(1927)の四月、三十三歳で、東大の助教授に迎えられました。 助教授時代に難問の関数学の新しい解折法を研究して、同八年三月理学博士の学位が授与されました。
 同十年(1935)四十一歳のとき文部省からドイツへ留学を命ぜられて、ベルリン工科大学やフンボルト大学に学び、最高の高等数学を修めて同十二年六月に帰国しました。
 それからは母校東大の教授として変らず、関数学専門の先生として多くの俊才を教えまた世に送り出しました。 戦後の新制大学に改革されても変らずに、東大に席を置かれ昭和三十年三月六十一歳の定年をむかえられて退官されました。
 その後も日本大学、立教大学、千葉大学などに招かれて、数少ない数学専門の先生として教授の職に就いて見えました。
 そして一世の碩学として大学、そして多くの子弟に敬慕されていましたが、ふとした身体の変調がもとで、同三十五年(1960) 三月六日六十六歳で病没されました。 誠に残念至極で国は、その死を悼み、三十七年間の大学、教育に尽くされた功績を讃え、岸信介首相の名で勲二等瑞宝章を授与されました。
 正次先生の兄正道は三歳年長で、兄も東京帝大農学部を卒業して、大正十五年(1926)七月六日乞われて菰野村村長に就任、昭和三年(一九二八)十月一日町制を施行された、初代の菰野町長でありました。
 正次先生の著書は十数冊に及び、その内容は高等数学の研究で一般には理解不可能な、難しいものでした。 その先生も趣味は油絵、ピアノ、ヴァイオリンなど、日曜日などは絵画、音楽をたのしみました。 文学は十五年長の「三田文学」の永井荷風の「墨東綺譚」を好んで愛読し、そして毎朝四時に起き、五時には家を出て大学へ直行、守衛より先生の方が早く、日曜日にも出て研究に没頭されるのが常でありました。 また旅行は好まれず、それは食事や夜具が異なるのを嫌われたからで、清潔を大変好まれました。住居は練馬区石神井にあって、そこは高台の景勝地で三宝寺氷川神社あたりを朝早く散歩して、健康に留意されました。