第330回

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  にお(稲叢)      文 郷土史家 佐々木 一
昭和35年10月撮影
昭和35年10月撮影
 昔は菰野の庄部祭りが終った十月三日頃から、稲の刈り取りがはじめられました。稲刈りは早稲、中稲、晩稲の順に行います。この頃になると自家の稲田の畦を歩いて、稲の登熟具合を手に取って見て、八分通り黄金色に、色付いておれば、鎌を入れてもよいと判断して稲刈りにかかります。
 明治の中頃から乱雑植を廃止して、正常植が励行され、田植に綱を引き株間を八寸ほどの間かくに植えました。稲刈りは右手に鎌を左手で稲株を握り四株刈って左側に揃えて置き、十二株を一把として前へと刈り進みます。畦もとは年寄りが手伝ってくれて、刈る口をあけてくれ、真中は、若いものが競いあって刈ります。稲刈りは腰の痛い重労働でした。一枚の田を刈り終ると、南の端から一列に並び、結草の藁を腰につけて、一把ずつ束ねました。そして束ねた稲のふところに手を入れて、体をくるりと左へ回すと穂が傘状にうまく聞いて足許に行儀よく並べて行きます。
 この傘干しを地干しといい、湿田では稲架に掛けて干します。菰野あたりの乾田では簡便な、この傘干し方法が大方でした。
 こうして二日ほど晴天が続くと日の光りと風で乾き、稲藁の乾き具合の色を見て昼前に竹の竿で傘干しを南穂にして倒して穂を乾かせ、夕方に一家総動員で、この稲を寄せ集めます。
 よせた稲を大よそ一反に二つ位の大きさに丸く積みます。その大きさは稲の草丈の長短のよって異なりますが、直径七尺ぐらいです。積む方法は稲叢の穂の下に藁の一束ほど 枕に置いてその上へ穂を中にして、両手で二杷づつ持ち積みあげて行きます。大人の目の高さ位に積むと、こんどは「蓑掛け」といい、穂を下にして、雨に濡れない様に上へ上へとかぶせて行きます。全部かぶせ終わったら頂上に稲束をしばり重しに置きます。中心の稲穂に雨水が入らないためです。積み上げた株がきちんと揃い、上の蓑が美しく見えるのが、この「にご」作りのコツでした。
 この稲叢を民俗学では「にお」といっております。青森県の津軽平野の五所川原でも「にお」と呼んでいます。これは新嘗と関係のある古いことばで、大昔し田の神に穂つきのままでお供したのをニホ、ニオ、ニゴとよび、それから穂のついたままの稲束を積んだものも、広くこの様によばれていました。
 秋から雪の降る初冬の頃まで野外に野積して置くと、自然に乾燥して、千歯で脱穀するのに穂首が揃い、作業が仕易くなりました。
 脱穀した藁を重ね積みしたものを「スズミ」といいました。これも藁束の数が百三十把と決められていました。藁は屋根の葺草、牛や馬の餌葉、草履や縄などの材料となり、また畳の床、瀬戸ものの詰めなどの需要があり藁屋がスズミ一つ位らと値をつけていました。
 西に連なる鈴鹿山脈の「鈴鹿」は、山の姿が、この「スズミ」によく似ているので「スズカ」の名になったという説もあります。 
 農業の機械化が進み、この「ニオ」も「スズミ」も影をひそめて、今日では見ることが出来ません。ふっくらした古風の「ニオ」の姿、乾いた稲束のぬくみ、そして穂の香り、「ニオ」の姿に手を合わして拝みたい思いがしたものでした。