第331回

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  津田寛海老師      文 郷土史家 佐々木 一
寛海老師
昭和四十年四月ころの寛海老師
 寛海は明治二十二年(1889)五月五日愛知県愛知郡織豊村稲葉地(名古屋市中村区稲葉地)の父、 津田寅次郎の二男に生れました。
 その遠祖の津田豊後守は信長の伯父に当り稲葉地城主でした。この城は庄内川の東岸に位置して西は大治から佐屋を経て、桑名へ通ずる東海道。北は清洲、稲沢、大垣へ抜ける鎌倉街道と呼ぶ、主要街道の要衝でありました。
 稲葉地城の城跡は、現在の神明神社の境内に残り、津田氏の菩提寺は同地の臨済宗凌雲寺で、 津田豊後守をはじめ、代々がこの寺に葬られています。
 寛海は、明治三十年八歳のとき父に伴われ汽車で神戸市駒ヶ林町の臨済宗海泉寺の佐藤到至和尚の膝下 に預けられました。この寺の近辺は、源平合戦や、楠正成の湊川合戦のあった所で、海泉寺は、 正和二年(1313)に創建の古い寺であります。この寺で修業すること四年、 一旦稲葉地へ戻りました。次は名古屋市中区矢場町の白林寺村上無底和尚に就き、 出家得度を受けて、俗名仁三郎を寛海と命名されました。
 白林寺で無底和尚の許で朝夕は仏道を修め、昼間は愛知県立第一中学校、(現旭丘高校) に入学して五年の通学を卒え基礎学門を身につけました。
 同四十四年三月、師の無底和尚の勧めで、美濃の伊深の正眼寺の僧堂へ入室、ここは、臨済宗妙心寺派の専門道場でした。この正眼寺は妙心寺を創建した 関山慧玄(かいざんえげん)が、京の都の喧騒を嫌い美濃の山奥のこの地を選び、 隠れ住んだ旧跡で寛文十一年(1671)太極唯一(たいきょくいいつ)が道場として開創した寺でした。この寺は戒律の厳しいことで天下に聞えた「鬼叢林」 (おにそうりん)として有名でした。
 大正六年(1917)五月、京都は花園の本山妙心寺内の天授院妙心僧堂に入門掛搭 (かた)して、この禅堂で、伊深正眼寺より以上の「只管打座」 (しかんたざ)の修業に励みました。また本山に修業中に長老の許を得て、京都のほか奈良大阪方面の高徳の老師を訪ね 「行雲流水」の巡歴の修業を過しました。
 大正十二年(1923)寛海三十四歳のとき見性寺十六代惟省和尚の跡を継ぎ、 十七代の住職を継承しました。
 見性寺は菰野藩主土方家の菩提寺として格式の高い寺、山門本堂も豪壮で庫裏の裏側に僧堂があって、常に若年の見習僧が住居して田畑の耕作に従事、昭和六年頃には四反の桑畑を作り養蚕も盛んに行っていました。
 寛海が住山当時は、藩主の後裔の土方久徴(ひさあきら)が日銀の総裁の重職にあって、菩提寺守護の念篤く、昭和十二年には藩祖雄氏の三百年祭も盛大に営まれました。その後次第に戦時体制となって寛文三年(1663)雄豊夫人寄進の名鐘も供出の命を受け、 鐘を菰に巻いて見性寺橋まで引き出されましたが、寛海は必死に拒みつづけ供出を免ぬがれました。
 また昭和十九年の東南海大地震の際は、山内にある歴代藩主の墓碑の大半が倒状して、 終戦後は、その復旧に大変な苦労がありました。 山内の杉、檜の植林と桜の植栽管理にも努めました。
 この見性寺の歴代住職の三代瑞渓をはじめ、四代静水、六代関梁そして十七代寛海まで、 この四名の住僧は、皆、尾張の稲葉地出身の方ばかりで、その一代を見性寺護持に尽され、 多くの子弟も育てられた有徳の師僧ばかりです。稲葉地は織田家に縁 (ゆかり)も深く、太閤生地の中村への入り口でもある、菰野、見性寺にとって遠くて近いご縁の深い土地といえます。
 寛海和尚は昭和五十六年(1981)十二月二十日世寿九十二歳で示寂されました。