第334回

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  横田幸治郎の碑      文 郷土史家 佐々木 一
小島下沢の横田幸治郎の碑
小島下沢の横田幸治郎の碑
 幸治郎は明治十三年(1880)八月三日朝明郡朝上村小島に生まれました。 生来温厚篤実にして家の農業に励み、同三十三年(1900)二十歳になった幸治郎は、 徴兵検査を受け、日清戦争後に新設された守山の歩兵第三十三聯隊へ入営することになりました。
 創設当初の三十三聯隊は、愛知県東春日井郡二城村守山の地内にあって、 通称「野村山丘陵」に兵舎が建設され、幸治郎が入隊したのは新設間もないこの守山の兵舎でした。 入営してから一年六ヶ月、厳しい戦闘訓練を受け二等兵から一等兵へ進級しました。
 同三十五年(1902)六月一日に三十三聯隊に師団司令部から台湾へ出兵の命が降りました。 翌二日、早くも守山の営門を出て乗船場へ直行。 名古屋港を輸送船で出航し八日間の行程で同月十日、 基隆港へ上陸し装備の点検と戦闘部隊の編成が行われました。
 台湾は太平洋の西端に浮ぶ蓬莱島といわれ、琉球諸島に連なる島で、面積は九州に等しく、 台湾山脈には3800メートル級の山々が聳え立ち、 その懐に台湾檜の美林を擁し、その麓に南北に延びる平地は、水稲、砂糖キビを産する豊かな島。 原住民の高砂族が高地に平穏に暮していたが日本の戦国期に明と清が争い、 大陸から避難の漢族が移住してきました。その後中国、オランダ、英国など列強が狙う宝の島でした。
 日清戦争後の明治二十八年、台湾は講和条約の調印で日本に帰属することになりました。 翌二十九年四月、政府はいち早く台北に台湾総督府を設け、海軍大将樺山資紀を派遣して軍政を敷きました。
 台湾島民は日本の領有に反対し、独立共和国にすると宣言して、各地で反抗を繰り広げるので、 手詰まりとなった政府は総督府長官に桂太郎、乃木希典将軍を派遣したが、 相手は正規の軍隊ではなく原住民の高砂族と漢民族のゲリラで容易に征伐できず、 明治三十五年六月は、智謀の児玉源太郎将軍が着任、折から台湾へ上陸掃討軍の歩兵第三大隊、 第二中隊に属する幸治郎らの部隊は、児玉将軍の指揮下に置かれていました。
 幸治郎の第二中隊は台北近郊の桃園の日本人居留民の保護にあたり、 六月十日一旦台北に帰営して休養を取り、更に七月九日出動の命を受け台北の南方、 新竹省の竹南から南庄方面の農村地帯の警備に当りました。 同月三十日に台北へ帰営し、七月五日には蕃婆石、卒抱阪に転戦しました。
 移動に地理は不案内、しかも台湾は猛暑の時季、八月二十九日に幸治郎は風土病に罹り倒れました。 直ちに台北の陸軍病院に入院して、翌三十日忽然と死亡しました。
 行く歳、僅か二十二歳の若さで、遠い南の島の台湾で、お国のためとはいえ残念至極でありました。 それからやがて郷里の朝上村へ無言の凱旋をしてきました。
 幸治郎の戦病死を朝上村では惜しみ、その表忠碑を生家の近く、 梅戸道の傍ら下沢橋の袂に建立することになりました。それは明治三十六年 (1903)三月一日でした。碑は根府川石の銘石を選び、碑文は旅団長の山口圭蔵少将に撰文を乞い、 建立の賛助者は朝上村長増田銀八をはじめ九十四名の懇志により建立されました。