第335回

バックナンバー

  正眼寺の涅槃像      文 郷土史家 佐々木 一
正眼寺の涅槃像
正眼寺の涅槃像
 毎年二月十五日は釈迦入滅の日として、寺院においては涅槃(ねはん)像をかかげて、 供養の法会が催されるのが、早春の行事となっています。
 この度、西菰野の臨済宗の正眼寺で、古い涅槃像が発見されました。 その涅槃像の作られたのは、寛永八年(1631)で、いまから三百七十五年前のことであります。 この涅槃像の図柄のあらましは、
 中央の寝台に釈迦が右手を曲げて手枕にして静かに休まれており、緑と朱色の衣をまとい、寝台の周りに沙羅双樹が八本、幹太く画(えが)かれ、釈迦の寝台の周りを、仏弟子をはじめ菩薩羅漢が取り囲んでいます。いずれも釈迦の最後を見守り、体を折り曲げて嘆き悲しみ、手前には象や牛、諸々の禽獣も集まり泣き打ち臥しています。折から中空には釈迦の母君、摩那夫人が阿那律を先導に、侍女三人を従えた来迎の姿が画かれています。この画像の特色は、朱と緑の色を濃い目に用いて、画面を明るく引立てています。
 この涅槃像には軸の裏側に二枚の裏書きが貼りつけてあり、制作当時のいわれがよく判ります。そのあらましは、
 「勢州三重郡薦野(こもの)村新福山正眼寺涅槃像は 土方七右衛門殿のお袋さまをはじめ  家中の上下衆及び西 中 東薦野の民百姓 そして黒川一郎兵衛のご息女 蒲生源兵衛の女小姓などのお志を以って出来候なり 寛永八年二月八日願主宗賢侍者」右の様に正眼寺住職宗賢和尚の筆で記されています。
  この裏書の中の土方七右衛門は土方雄高(かつたか)のことで、 このとき十九歳。お袋様は雄高の実母玉雄院(ぎょくゆういん)で、 父雄氏(かつじ)との間に生まれた菰野藩主第二世を継ぐべき人でした。 父の雄氏は戦国の戦野を駆け回った勇士でしたが、雄高は生来病弱で、この前の年十八歳のとき疱瘡(ほうそう) を患い、父の雄氏が心配して八幡大菩薩に祈願して、漸く小康を保っているにすぎませんでした。 母の玉雄院は、たった一人の世継ぎをさせるべき雄高の容体を案じて、 こんどは、正眼寺の薬師如来のご加護を受けるべくと思いあぐね、この涅槃像の寄進を発心なさったのだと思われます。
 涅槃像は京都の名のある絵師に依頼して制作されたもののようですが、その名は不明であります。
 正眼寺の寺歴では、この寺はもと冠峰山三嶽寺の末寺で寺坂(てらざか)(「みずほ寮」の東あたり) に寺はあったが信長の兵火に遭い滅亡、本尊の薬師三尊仏だけ事前に救出して、 西菰野村の農家の納屋奥に久しく隠してあったのを、三世の雄豊(かつとよ)が知って再興した。 その開基は明暦三年(1657)説を唱えて来ましたが、この涅槃像の年代は、 それより二十六年前の寛永八年です。 すでに雄氏が、菰野城へ入城して直ぐに薬師三尊の仮堂を設けて、藩の将来を祈念して新福山の山号を許し、 雄豊より先に正眼寺再興をしたのだと考えられます。
 母玉雄院の必死の祈願もその甲斐なく、雄高は二世の在職僅か十三年で、三十九歳で亡くなりました。 夫の雄氏は早くから京都の武者小路の舘に隠れ住み、国許のまつりごとよろずのことは、玉雄院と家老の桑原氏に委ね、雄氏は京都で亡くなりました。菩提寺見性寺に雄高の墓碑は立派に建てられていますが、夫の雄氏の墓はなく、玉雄院の胸の内がよくわかります。
  三世雄豊は祖母玉雄院を心から尊び、孝養をつくし寺を何ヵ寺も創建し、藩の治政にも心してその基礎を固めました。この一幅の涅槃像は、菰野藩の最初のお母さんともいうべき、玉雄院の深い苦悩の一端を物語っています。