第336回

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  西南戦争      文 郷土史家 佐々木 一
小島の共同墓地にある増田津右衛門の墓碑
小島の共同墓地にある
増田津右衛門の墓碑
 明治十年(1877)征韓論に敗れた西郷隆盛は、官職を辞して故郷の鹿児島に帰り私学校を設立した。 そこで「敬天愛人」を信条にして郷党の青年教育を志した。野に下った西郷は敬慕されること篤く、自身は何の野望もなく沈思黙考の日を守っていたが、同年の二月頃に西郷暗殺の噂が立った。それを聞き、私学校の生徒や、薩摩藩の下級武士らが憤り、一団となって熊本との県境の、 えびの峠から人吉盆地へ雪崩れ込む事態となった。
  西郷は血気にはやる暴挙を必死に宥めたがとどめること出来ず、これが発端となって明治新政府に対する不平を鳴らす反抗となった。
  これより先、同五年(1872)明治政府は国民皆兵令を布き、東京、仙台、大阪、熊本に鎮台を置いた。 薩摩軍の蜂起に驚いた政府は、征討の総督に有栖川幟仁親王を、参謀に川村純義、山県有朋らを命じ、 陸軍五万八千、警察隊六千七百、海軍二千二百を急ぎ派遣、これに対する薩摩軍は三万といわれた。
  この西南戦争に我が菰野町域からの参加は三十余名ほどで、その中の四名が戦没している。
  増田津右衛門(小島出身)
  近衛歩兵第二聯隊三中隊に所属。明治十年三月十日、薩摩軍は熊本県北部の鍋田、山鹿付近まで進攻、天然の嶮に人工の土塁を築き、これに向け官軍は、歩兵砲二門を据えて薩軍の陣地を砲撃、弾道の照準合わず攻撃に失敗する。十五日再び一せいに攻撃開始。三月十七日山鹿、平山の戦闘にて将校二名、兵卒六名戦死する。その戦没者に津右衛門も入る。
  萩嘉右衛門(川北出身)
  大阪鎮台歩兵第九聯隊二大隊一中隊に所属する。薩軍は鹿児島の城山を出て、熊本城を左に見て更に深く県北の菊池、玉名方面へ侵入し田原坂まで攻め入り破竹の勢いであった。薩軍は熊本を席巻して長崎、福岡まで進攻の体勢であった。それを迎え討つ官軍は本州から及び越しで、三月六日の田原坂は大激戦となり将校一名、下士三名、兵卒十六名の戦死者を出した。嘉右衛門は傷つき後方の久留米仮設陸軍病院へ送られ、四月六日に死没した。
  内田勝右衛門(川北出身)
  大阪鎮台歩兵第八聯隊三大隊三中隊に所属。第三旅団三浦少将の旗下、四月七日南田島方面の薩軍を攻撃、敵は鳥巣を退去と見せて逆襲、白刃を揮いつつ殺到し、功守転倒して退去する。この鳥巣、萩迫の戦闘で将校五名、下士十三名、兵卒百十六名の犠牲を払う。勝右衛門は、この戦いで負傷、大阪陸軍病院にて五月七日死没する。
  小崎弥四郎(池底出身)
  近衛歩兵第二 聯隊一大隊三中隊に所属。薩軍を熊本から追撃して鹿児島との県境大関山に至る。国見山、天笠岳の付近である。大関山に籠る薩軍を包囲攻撃、大激戦となる。この戦闘で将校一名、下士五名、三重県出身の兵卒九名戦死、弥四郎も大関山で五月二十四日戦死する。 
  この明治十年の西南戦争では、官軍の戦死者六千八百余名、戦傷者九千二百余名、薩摩軍の戦死者五千余名、戦傷者一万余名の犠牲者が出た。
  同十年の九月二十四日西郷隆盛は、城山に落ち延び、この戦乱の責を一身に負い、自ら切腹して命を断った。武人としての最後を全うした、享年五十一歳であった。