第337回

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  樅の木の独り言      文 郷土史家 佐々木 一
大正時代の校舎と樅の木=菰野小学校提供
大正時代の校舎と樅の木=菰野小学校提供
 私は中菰野の桶屋の治郎兵衛の屋敷の隅にあった縦の木です。それが明治三十一年(1898)に菰野小学校が、お城の陣屋跡へ移って来て、立派な本館と校舎が建ちました。その時玄関の右手のところへ植えてもらいました。
  はじめは主の治郎兵衛が、湯の山谷の中小路谷へ柴刈りに行き、ひとり生えで生生としている私を見付け、こっそりと堀り取って来て植えたものが、治郎兵衛の屋敷で大きく育ちました。菰野小学校へ運ばれてゆくときは、大きな根に藁と縄とで針巻きをしてもらい、丈夫な牛車にのせられて、そろそろと学校まで来て丁寧に植えられました。
  それから十年ほど立った同四十一年(1908)菰野に二十年ほど置かれていた三重郡西部十ヶ村の組合立菰野高等小学校は、規則が変わって廃止になり、それぞれの村の小学校に付属されることになりました。菰野もお城の中の小学校の隣りに、高等科の校舎が併設されました。その頃に旧地に残っていた高等科の本館が、なんと私が生れ育った桶屋の治郎兵衛の家へ、移築されることになりました。それは息子の閑一(かんいち)が、愛知県立蚕糸講習所を卒業して、大大的に養蚕業を営むことになり、その蚕室に活用するためでした。
  菰小はだんだん整備されて、お殿さまの奥庭の跡にご真影を奉安する、白壁の奉安庫も完成しました。そして大正はすぎ、昭和二年になって、西側の運動場の中心に大講堂が新築されて、四大節のほか式典は、立派な講堂で行われるようになりました。昭和七年に伊賀から稲森縫之助校長が転任して見え、稲森校長は小学教育の方法の改革を志し、自らが提唱する労作教育を、黒沢隆吉町長と二人三脚で進めました。黒沢町長は校舎をはじめ設備の充実に財政の援助を思う存分に協力しました。昭和九年には青年学校を建て、農村女子の教育を高めるために新しく校地を求めて、町立実踐女学校を創立する大英断を下しました。まだ、それで足らず本館の新築を計画し、一階に職員室、保健室、講買部、博物室を設けて、学習参考品の鉱物、生物などの標本を陳列しました。二階は広く、参考書及び文学本など、書架に一杯納めて自由に読むことが出来ました。そして本館の窓は明るく、屋根は三角形、ドイツ瓦で葺きそれはほかにない瀟洒(しょうしゃ)なものでした。
  これだけの大改革が行われても、私、樅は邪魔にもされず、本館の北側にその高い棟と背比べ、校歌にも歌われ菰小の象徴にしてもらいました。北裏に運動場も拡張されて、その表面は、三滝川の真白い砂が敷かれて、目映いくらい美しくなりました。運動場の西側は労作農園で、四季の野菜、農作物が作られ、鶏舎、豚舎、兎舎がありました。朝は元気に鶏が鳴き卵を生み、豚の子は柵の中を走り廻り、兎は皆に抱いて可愛がってもらい、賑やかになりました。
  私も夏の暑いときはバケツで根方に水をかけて大事にしてもらいました。戦時中は辛い思いもしましたが、終戦で平和になって樅の枝に小鳥が来て囀り、根方では可愛い一年生の子らが手をつなぎ歌を唄ってくれました。
  そして昭和四十八年菰小創立百周年を記念して鉄筋校舎に建替えの計画ができ、自慢の三角屋根の本館が壊される日が来ました。力のある重機が鋭い爪の先で柱をつかみ、次々となぎ倒して行く様、それを見、私の太い幹の陰で泣いている女生徒を見かけ、私も一緒になって涙をながしました。