第338回

バックナンバー

  三重用水 宮川ダム      文 郷土史家 佐々木 一
宮川ダムの施行前
宮川ダムの施行前(昭和38年9月18日撮影)
 巡見街道(国道306号)の田口の辻から、真直ぐ2キロほど西へ登った所に、福の神、福王神社があります。この写真の鍬を担いで田圃(たんぼ)へ急ぐ人の歩む道が、福王への表参道でした。この農家の奥に、現在では三重用水の宮川ダムができて、この写真に写る、のどかな田園風景は一変してしまいました。
 先の大戦では大きな痛手を受け、荒廃した日本国土を速やかに復興するために、終戦後の昭和25年に国土総合開発計画が発令され、翌26年に国は「木曽川水系総合農業水利調査事務所」を名古屋に置きました。
 それに即して三重県においても「三重用水改良期成同盟会」が結成されました。この三重用水事業の推進に、北勢地方の町や村では公会所に農家の人々を集めて説明会が頻繁に行われました。
 ことに愛知県では、知多半島に水の流れる川は無く、水不足で困窮、知多の篤農家の久野庄太郎が手弁当で上京して、ときの吉田茂首相に直談判して、木曽川の水を知多半島へ流してほしいと訴えたという話も聞こえてきました。伊勢湾台風後の同39年に国は、愛知用水も、三重用水も合わせた総合実施計画を立て「国営三重用水事業所」を四日市市内の県(あがた)に開設しました。
 そして同46年には、隣の岐阜県上石津町時山の楫斐川支流の牧田川から水を貰い、県境を越えて員弁の奥の中里ダムへ通水する承諾を得ることが出来ました。こちらの三重用水の基幹の中里ダムでは、藤原町深尾の集落二八戸と八五人の人たちに、立ち退き移住の犠牲を強いることになりました。同年三月には深尾の氏神のあった跡に「離郷の碑」を建て、それに「離郷の決意をするに至った心情は、まことに断腸の一語につきる、我々の犠牲によって満々と、このダムにたたえられた清冽な水が、願わくば世の多くの人たちを潤す恵みの水にならんことを」と刻み、永く住み馴れた村を離れて行きました。
 中里ダムは翌47年に着工して、同52年3月に完成しました。
 この宮川ダムについて、田口集落の人々の心配は、福王の宮への参道や、田圃、畑がダム湖に沈み、そして大堰堤(えんてい)直下の家は立ち退かねばならないと、公会所に幾夜も幾夜も集り協議を重ね、その上河川水利権の同意、ダム湖用地の提供などの承諾書の印判を押すことになりました。 
 ダムの地盤の表面は、福王扇状地の堆積層で玄武岩、砂岩、花崗岩の巨礫もあって、それをフルイにかけて選別、その下の基盤は東海湖時代の奄芸(あげい)層群で軟弱な層は掘り取って、良質の土と入れ替え、ダムの本体は水漏れを防ぐために上質の粘質土を購入して、21トンブルドーザーで振動を加えながら転圧して仕上げました。
 これが江戸期の溜池の堤塘(ていとう)造りの場合は、黒鍬(くろくわ)師という技術者を尾張から雇い入れて、その指揮で、堤塘本体の刃金土は、良質な粘土材を用いてこれに小砂利を混ぜ、土突棒で突き固め、タコで入念に叩き鎮圧して、水漏れと決壊を防いだと言います。
また溜池の保守に当る者は「池守」とよび、一年に米一石の手当が支給されました。現在のダムの保守は、水圧計、沈下計、地震計などの観測計器、そして中里ダムからの導水、田光川の渓流からの取水、貯水量の調節と、朝明用水路への水田の灌漑(かんがい)用水に配水と、とにかく入れて、貯めて、出すの複雑な操作管理を、菰野ダムの管理所が、一括して制御、調節を行っています。
 昔は田口川の川巾一ぱいに松丸太を横に伏せてその上に粗朶(そだ)を並べ、重しの九太を寝さし砂を掻きよせた、原始的な井堰で取水し、溝川の土水路(どすいろ)で導き、稲田を潤していました。ところが日照りになると鍬を振り上げて水争いをしたものですが、それがすべて解消して現在は、水で苦労した人の清五郎用水、善兵衛湯、正次井水などの名がわずかに残るだけであります。