第339回

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  宗利谷の不動祭り      文 郷土史家 佐々木 一
宗利不動尊
宗利不動尊=昭和36年6月28日撮影
 延享四年(1747)の菰野藩の社寺資料「社寺書上帳」によりますと「宗利の滝不動三郷立会い、 御尺(たけ)二尺五寸、堂三尺四方、六月二十八日祭祀、この滝不動、 往古より祭りと申し弥宜(ねぎ)を雇い毎年相つとめ申し候 大字菰野宗利東岨(ひがしそわ)」と記されています。
 菰野町には福王まつり、尾高まつりなど、古くからの伝統行事が行われていますが、 こうして藩の公文書にも記載され、今日でも変わらず継続されているのは、この「宗利の滝不動」祭りであります。 大字菰野には、蒼滝不動、滝谷不動、金谷不動の併せて四つが、同じく六月二十八日に行われております。
 まず六月二十八日に「不動祭り」が行われるのは、昔は田植が遅く「早開き(さびら)」といい暦の上の 「芒種(ぼうしゅ)」の頃に田植をはじめ、夏至の頃に終わるのが大方で、遅くともこの不動祭りまでと、 祭りが田植の終りといい、急ぎ田植に精を出したものでした。
 江戸期は、寺社改めの通り不動まつり費用と祠堂の修理、建替費は三郷惣山費で賄われていました。 祠にまつる本尊は、御尺二尺五寸の花崗岩の自然石であります。
 祀る場所は、宗利谷の東岨で、境内は杉の古木に囲まれて、堂は九尺に二間ほどの小堂です。 南を流れる宗利谷には小さな滝があります。菰野にある不動堂は、蒼滝をはじめとして、 大小の滝の付近に祀られています。 この参道は、近鉄湯の山駅の西側に、町道がつけられてあり、その道を三滝川に沿い上ること三百メートルほど、 砂防のダムで車は行けず、徒歩で宗利の谷川を北へ渡り、さらに二百メートルほど上った所に鳥居が立ち、 石段を少し登った所に堂はあります。
 昔は、六月二十八日の朝、中薦野村の庄屋の家から一尺胴の大鼓を若者が二人で、 青竹の竿で前後に吊り、横からもう一人の叩き役がたたきながらその後に、 庄屋、肝煎、組頭がつづき、参詣の村人は太鼓の音に誘われて家を出て、その後に従います。 そして祢宜役は前後に就き、道案内をします。また供物役は、 早朝から黒豆入りのお強(こわ)飯を大櫃(ひつ)に一杯つくり、それを大風呂敷に包み背負って行列に従います。 三滝川を渡り宗利谷へ入りますと、行列を解いで、銘々腰の鎌を抜いて、 参道沿いにおおい茂っている草を切り払い、道を明けつつ登ります。
 不動堂に到着しますと、庄屋の指図で堂の中の清拭とまわりの掃除をして清めて、 祢宜の祝詞奉上があり一同拝礼して、庄屋の田植の終わったこと、それの労(ねぎら)いの口上があって、 神酒、お強飯、供物の徹饌(てっせん)があって一同に振る舞われる。 お強飯は、折から山に茂る葛の葉を摘み、その葉に一箸づつ分けてもらう。 お強飯を頂くと夏病みしないと言われました。今年も中菰野第二区区長が司祭者になり、 昔通り草を刈り、黒豆のお強飯を供え、厳粛に不動祭りが行われました。
 この宗利不動の名の起りは、中菰野村に惣兵衛、おつるの夫婦があって、 不動尊に篤(あつ)い信仰を寄せていました。ある夜の夢の告げに「山にある藤の蔓(つる)を切り、 草履を作り神明前で旅人に売れ」との託宣があり、夫婦がその通り力を合わせ草履づくりに励んだので、 誰いうとなくそうり不動と呼んだのがはじまりといわれています。