第341回

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  工匠 根来市蔵    文 郷土史家 佐々木 一
16代目の根来市蔵氏
16代目の根来市蔵氏=平成8年1月14日撮影
 菰野は土方氏の城下町、石造品の古碑、銘碑が、人の目につき易い道端や、公共の場所に残されています。 その碑をたずね碑表と碑陰を、手の平でなぞって読ませて貰うと、碑陰には碑の建立に際しての発起人、 賛助者の名が刻まれていて、その末尾に、小さく控え目に工匠の名が、誰それと印(しる)されています。
 町内にも石造品を刻む名工がおり、先に多度大社の常夜灯篭を制作した千草の徳兵衛、 杉谷の伝次郎の名を紹介いたしましたが、今回は、桑名の名工匠根来市蔵に登場を願い、 菰野町内に残る古碑で、それを刻んだ根来市蔵の名のあるものを拳げました。

 [永井]田中倚水の記念碑
(池坊華道家)
 [菰野]畑田久楽の記念碑
(池坊華道家)
 [音羽]中川忠四郎彰徳碑
(村治功労)
 [菰野]関取米記念碑
(佐々木惣吉)
 [竹成]竹成米記念碑
(松岡直右衛門)
 [田口]福王山記念碑
(入会争論裁定)
 [永井]前野の記念碑
(入会野論裁定)
 右の七基のほか、根来市蔵の地元桑名には、七里の渡船場住吉浦と、町屋川の安永橋詰の常夜灯篭にその名が見え、 ほかにも沢山作品は残っています。
 この根来氏の名のいわれは、戦国期に紀伊の根来寺を中心として、僧兵が集団を組み、鉄砲を巧みに使い信長、秀吉の軍勢に対抗した根来衆がはじまりです。秀吉に激しく抵抗したが遂に征伐されて離散しました。その流れを汲むものが、和泉国の丘陵の石切場で、石工として働いたのが根来石工の先祖であります。
 根来市蔵の故郷は、現在の阪南市黒田町で、ここにある浄土宗智恩院派の流谷山黒田寺で、この寺の境内にある古い墓碑には、根来氏の遠祖の履歴が刻まれています。根来市蔵の先祖は元和六年(1620)に黒田村を出て、参宮街道を経て伊勢の桑名へ移住して来ました。現在の当主は十六代目であります。なお竹成の五百羅漢像を刻んだといわれる藤原長兵衛も、この黒田村の出身で、なおまた菰野の杉谷の伝吉も、黒田村から出て杉谷に住み「和泉石屋」と名乗っていました。千草の長右衛門は、黒田村の隣の箱作村から享保十五年(1730)に移り来て、多度の常夜灯篭を作った徳兵衛は、その子孫であります。
 こうして根来氏をはじめとして、菰野の杉谷、千草の石工が和泉国から移住して来たのは、和泉山脈に埋蔵の「和泉石」は砂岩系の堆積岩で、材質は緻密で細工物に向いている良材で、京阪神地方に需要があって、盛んに採掘されたため、幕府は、治山砂防上から、この和泉石の採石を停止しました。そのため石工は職を失い、仕事を求めて各地に離散し、村の人口は半減した時がありました。その移住地は信濃、美濃辺りまでも行っております。
 この和泉山地の峠を越えて紀ノ川を渡ると、高野山金剛峰寺の奥の院にある、徳川将軍家をはじめ、国々の諸侯の墓碑は和泉石で刻まれ、この大名の碑はほとんど和泉石工の手になるものであります。