第342回

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   稚蚕共同飼育所の開設     文 郷土史家 佐々木 一
昭和三十三年五月九日撮影
昭和三十三年五月九日撮影
 初秋九月の初旬に、晩秋蚕(ばんしゅうさん)の掃立(はきた)てがはじまります。田圃(たんぼ)の早稲(わせ)は、早や穂首を傾けはじめ、中稲(なかて)の開花して出穂(でぼ)するのを穂が走るといいました。そして十月一日の菰野にはじまり、千種、鵜川原、竹永、朝上の順で収穫感謝の秋祭りが行われました。
 稲刈鎌を手に田圃の稲刈りは、秋祭りをすませてから行いましたが、それまでに菰野あたりの農家では、晩秋蚕の 「飼い蚕(かいこ)」飼いに大忙しでした。
 稲作は、一年に一回の収穫でしたが、養蚕は、春、夏、秋の三回、桑の成長具合で年に四回、 五回と飼育することもありました。明治二十八年から同三十八年のころは、お米一俵が三円五十銭、 繭一貫目が同じ値で、横浜、神戸港から輸出され、 欧米諸国のご婦人に愛用の絹製のネッカチーフとストッキング用に爆発的な勢いで増産され、 農家の唯一の現金収入源として受入れられました。
 三重県も、群馬、長野、埼玉に次ぐ養蚕県として知られ、殊に菰野町の地域では、 三重県内屈指の繭生産量を誇っていました。
 昭和十年ころから生糸の輸出が減少して、支那事変、大東亜戦争の開戦後は、 食糧増産が叫ばれて、桑畑が甘藷(かんしょ)畑に改植されて、養蚕農家も激減しました。
 戦後は朝上の小島地区と鵜川原の川北地区が一早く養蚕業を復活しましたが、 ここに紹介しますのは朝上地区の小島の稚蚕(ちさん)共同飼育場の活動ぶりです。
 県の蚕業指導所では、養蚕に熱心な小島養蚕組合に「稚蚕共同飼育場」の設置を勧め、 その工事が、昭和三十三年一月十四日に完成して、その記念写真が残っていました。 それには、技術指導に当る川口武雄氏をはじめ、男の人は黒田勘一郎氏のほか八人、 女性は増田たきゑさんほか七人のメンバーであります。  
  蚕は卵から孵化して三齢までの幼い期間を稚蚕といい、 食餌の桑は勿論、蚕室の適温換気などに細心の心配りが必要です。 そのため共同飼育場は有効で、川口技術普及員の指導で、この七人の選ばれた女性「共励班」の手で、 「赤ちゃんお蚕こ」の飼育が心をこめて行われました。それが三齢になると、 組合員の農家へ配分され、蚕棚を組み、消毒された蚕室で、大切に飼われるのでした。
 蚕は一齢ごとに脱皮して大きくなり、五齢になると体が「ビードロ」状に黄化して、 首を揚げて巣作りをはじめます。繭は蚕の巣であって、口から吐く糸は一本に連なり、 それが俵の様な形に上手に作られます。繭作りが完成しますと、繭の中で蛹(さなぎ)になって眠ります。  
  養蚕とは卵から幼虫になり蛹、成虫になる昆虫の一生の中の、幼虫に桑を食べさせて繭を作るまでの間のことで、 蚕を親しみをこめて「お蚕さん」とよぶのは、蚕の命を頂くことからのことです。
 蚕は掃立から稚蚕、壮蚕、上蔟(じょうぞく)、繭かき、出荷の過程を経ますが、 農家に飼われるのは約一カ月の間の短い間です。その飼育期間中に病気に患ることも多く、 飼育農家ではそれが心配でした。
 亀山の野登山の頂上にある「鶏足山野登寺」の本尊千手観音像は、桑の古木でつくられていて、 毎年四月七日の春の法会には、桑の木を乾して護摩木にして護摩壇で焚き、 祈願をこめた「蚕守護札」を参詣者に頒布しました。 菰野の養蚕農家もこれを蚕室の壁に貼り付けて、無事に繭を作ってくれることを祈りました。