第344回

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   二宮金次郎     文 郷土史家 佐々木 一

  


小田原市二宮尊徳神社の金次郎像
平成十八年十月十二日撮影

  柴刈り縄(なわ)ない草鞋(わらじ)をつくり
    親の手を助(す)け弟を世話し
  兄弟仲よく孝行つくす
    手本は二宮金次郎 
 
  骨身を惜(おし)まず仕事をはげみ
    夜なべ済(す)まして手習読書 
  せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ
     手本は二宮金次郎
      
       明治44 尋常小学唱歌
  
 この懐かしい歌は、昭和のはじめから二十年頃までに、小学校で学ばれた方はよく知って見え、直ぐ口ずさみ、 唄って頂けると思います。大方の小学校では正門か職員室の前あたりに、 この歌の主の二宮金次郎の石像か銅像が立てられていました。
 菰野小学校では昭和十五年ごろ皇紀2600年を記念して、本館の前に金次郎の石像が立ちました。 朝上小学校では、昭和三年ごろに昭和天皇の即位の大礼を記念して、ブロンズ像の金次郎像が、 玄関の左手、職員室の南側に立てられました。
 まだ現在も学校の敷地に残っているものは、四日市市県小学校に、 昭和十二年二月に川田重兵衛氏寄贈の像がいまも立っています。 道端の信号の下で自動車が激突して傷ついて見えます。
 さて二宮金次郎は、どんな人であったのか。天明七年(1787)相模国足柄下郡栢山(かやま)村 (現神奈川県小田原市)の農家、利右衛門、よし夫妻の長男に生まれました。村を流れる酒匂(さかわ)川が大洪水で、 この復旧工事に出役した父の利右衛門は激しい苦役に病気になって寝込み、金次郎十四歳のとき、 父は四十八歳で亡くなりました。あとに三人の子が残されて母の苦労も大変でした。
 金次郎は母を助けて、朝早くから足柄山へ柴を刈りに、夜業に縄をない、わらじを作り一家を支えました。 こうして寺小屋へ通って読み書きの勉強も出来ず、山へ柴刈りの行き帰りにも本を読み励みました。 享和二年(1802)母よしが亡くなり、金次郎は伯父万兵衛の家へ、弟二人は母の実家へ引き取られました。 村の名主方へ住み込み、勉強と百姓仕事を覚え二十歳になり自分の家に帰り、生家の再興につとめました。 金次郎の勉強と働きぶりが小田原城へも聞こえ、家老の服部十郎兵衛の若党として仕え、息子が塾へ通うのに付添い、 部屋の外で講義を盗み聞きして勉強しました。
 また家老の服部家の財政が逼迫、その再建を頼まれて、赤字解消策に努めました。
こうした金次郎の智慧の並ならぬことが、小田原藩主大久保忠真(たださね)公の耳に入り、三十五歳のとき、 お城から呼び出しがあって、藩主直々の命で分家の宇津家の領地桜町(現栃木県二宮町)の農村復興を命ぜられました。 これには百姓生まれの金次郎を登用することで、 藩内に異論がありましたが、名君忠真公の大英断で金次郎は家屋敷田畑を金に替え、 妻子を連れて遠い栃木の桜町の村へ赴きました。遠く離れて身知らぬ村人の中へ飛び込んでの再建策、 ずい分と反対もあったが十年の歳月をかけ、見事に豊かな村に復興させ、藩主から士分格を与えられ、 大変なお褒めを受けました。その後幕府領日光神領地八十九村の開発復興の命を受けて日光今市に出張中の安政三年 (1856)十月二十日七十歳で死亡、日光今市の如来寺(浄土宗)に葬られました。