第345回

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   黒松と大石     文 郷土史家 佐々木 一

菰野小学校体育館前の黒松と大石
     菰野小学校体育館前の黒松と大石
        (平成18年11月28
日撮影)

 菰野小学校の体育館の正面玄関に、一本の黒松と花崗岩の大きな石が、どっしりと据えつけられています。
 松は冬の厳しい寒さにも耐え、凛とした姿を見せています。こうした清潔さに、この木に神が天下ると思われて、それを待つ心がマツの名になったといわれています。お正月に立てる門松も、歳(とし)神を迎える依代(よりしろ)として、雄松雌松を左右に立てました。
 さてこの大きな石は、元は菰野富士の南、現在の清気橋の東方に、江戸時代は旧湯の山道の「一の橋」の位置に藤棚があり、その南の三滝川の北岸にありました。この石の上で旅人が弁当を広げ、腰を下ろして一服する名高い石でありました。
 昭和七年(1932)三月、そのときの黒沢隆吉町長は、新進の労作教育を提唱する稲森縫之助氏を伊賀から校長に迎えました。黒沢町長は明治三十一年に建築した本館と老朽教室を改築して、労作教育を進めるための手工、図工の教室の新築計画を立て、順次建築の工事が進み、昭和九年の春にはほぼ完成の目処がつきました。この年は、明治六年(1873)の開校以来六十一年目に当たり、この菰野小学校の礎を、盤石の備えにするために、湯の山栃谷にあるこの大石を運んで、新築本館の玄関先に据えることになりました。
 この大仕事は小学校近くに住む河村広太郎、良一父子に命ぜられました。広太郎はその当時、重い石造物や木材を運ぶ仕事をしていました。まずは大石を道まで、コロとテコを使い、万力を用い引っ張り揚げました。重い石を運ぶ車は、前と後ろに分けた木製の荷車に丈夫な丸太を渡し、石を網でからげて、前後の車の中心に載せました。
 この大石を引くのは、広太郎の愛牛「ヒロ」で、雄牛の力持ち。体は大きくても、気性はやさしく、主人の広太郎の命ずるままに動いてくれました。案じていた神明橋も前年に立派なコンクリート橋にかけかえられ、無事に渡ることが出来ました。
 運搬の荷車の轍(わだち)の巾は10センチもあり、途中電車の踏切を四つ通り抜けます。また、振子川の橋はみな石橋で、これが本瀬古と雄泉寺橋の二つを通らないと学校の玄関先まで運べません。この二つの石橋の下に俄に支え棒を立て補強して、無事に渡り終え学校へ到着しました。
 大石を台車から降ろすのは「箱万力」「神楽台」を使い、ゆるゆる所定の位置に据え置きました。
 大石の側に植えられた雄松は、刈畑の用水路沿い(菰野地区コミュニティセンターの北辺り)の田ぐろに植えてあった数本の中から、枝ぶりのよいのを選び、移し植えられたものです(良一談)。樹齢は現在でおおよそ百十年ぐらいです。
 昭和五十年に校舎の鉄筋コンクリート化により校門付近にあった大石と松は体育館前へ移されてきました。また北校舎の改築により校舎は西へまとめられて、広いグラウンドも北から東側へ移されて、水泳のプールも北から南の端へ移し替えられました。
 この黒松の相棒であった、校歌に詠(うた)われている、校庭にまっすぐに立っていたもみの木は、先に寿命が尽きてしまい、昭和51年にお別れ会が行われました。残る黒松が清々と松喰虫に負けずに、雄々しく生きることを祈るばかりであります。