第346回

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   千種忠顕卿     文 郷土史家 佐々木 一

千種忠顕卿戦死之碑

京都市左京区八瀬の比叡山中腹、
雲母坂にある「千種忠顕卿戦死之碑」
(平成十八年九月十七日撮影)
 大字千草の城山(しろやま)という所に残る中世城館の山城は、室町期全期に亘り、いく度も興亡を繰り返して来た砦です。ここに登場する千種氏の遠祖である千種忠顕(ただあき)は、南北朝時代の軍記物の「太平記」に登場の人物です。
 忠顕の父は六条権中納言有忠で、宮中に仕える公家でしたが、堂上衆の家に生まれた忠顕は、武勇に富み、後醍醐天皇の信任を受け、近衛中将として側近に仕えました。天皇が平安の昔に帰り、親政を志して、北条幕府の排斥を企てられ、それが察知されて天皇は笠置に逃がれ、更に遠く隠岐の島に配流になりました。これを元弘の乱といい、この事変のときも忠顕は天皇の側近く仕え、警護に尽しました。  
 このときは伯耆(ほうき)国の武将名和長年が、隠岐島に幽閉の天皇の脱出を助け、船上山に迎えました。これにより討幕の論が各地に起こり、足利尊氏もこのときは天皇親政に力を貸し、建武の中興が成立しました。  
 尊氏は建武親政の第一の勲功者として相模、伊豆を与えられたが、新田義貞を討つことを天皇に奏上。これが入れられず義貞に尊氏を討たすの命が下りましたが、箱根で義貞は尊氏軍に敗れました。尊氏はその勢いで再度京に攻め上り、これを千種忠顕、名和長年らが力を合せて瀬田を守り、尊氏形勢不利で一旦は兵庫の港より九州へ逃走し、また力を得て京都に向かい、これを迎え撃つ楠木正成、名和長年らが戦死しました。  
 忠顕は天皇を比叡山延暦寺へお移しして、京の白川口、八瀬口から四明岳へ攻め登る足利軍勢を、雲母坂で防ぐ。敵は千軍万馬の強者ども、守る忠顕勢は柔弱の近衛軍兵と、これに加勢の延暦寺の僧兵ども。戦の専門の足利勢に坂下の水飲場で押され、更に敵は松尾谷の背後から攻め入り、忠顕は丸子の小高い丘で戦死を遂げました。南朝の延元元年(1336)六月七日でありました。   
 実は平成十八年九月十七日秋の彼岸に雲母坂の忠顕戦死の地を訪ねました。京都は東山五条から北へ上り、南禅寺前から白川通りを真直ぐに北へ、修学院離宮前から宝ヶ池を経て右へ折れて、八瀬の京福電鉄のケーブル駅からケーブルに乗車、終点の「比叡」で下車して右手に階段を昇ると山際に、「千種忠顕卿戦死の碑」の横書の表示板に右の矢印がある。暫く横に這うと左手に地蔵堂があり、ここからは道標に従い下へ降りる。あたり一面植林の檜林で、林の中の踏分道を二十分ほど降りると、やや平坦な左右の道の辻に出る。この辻の西方に白く高い碑が檜林の闇に透けてみえる。  
 碑の正面に「千種忠顕卿戦死之碑」とあって、裏に大正十年五月建立とあり、碑の台石に横長の銅板には、京大教授の三浦周行の撰文が刻まれている。碑の高さ3メートル、巾65.5センチ、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は東西、南北約9メートルほどで、角柱の玉垣で囲われている堅固な造りである。基壇の銅板には建立者の「六条有熙(ありひろ)、小林正直、碓井小三郎、三浦周行、掃雲斉千種顕男」の名が読める。碑の前の一本の桜は枯れ、周りは雑草が生えている。  
  なお、「千種塚旧址」は、碑の北方200メートルほどの登山道の左側に残る。この石標は高さ1.36メートル、幅47センチで建立年代は不明。この塚の隠滅を憂い、先の大正十年の建立となった。「水飲対陣の碑」は、この旧塚を降りて修学院の鷺森神社の東方山の中にあります。(八幡町駒野静治氏の示教)
  なお、千種城主の菩提寺である下村の禅林寺には、昭和二年七月「千種忠顕卿追遠之碑」が建立されています。